Opus 7

essays about moving pictures (or books)

GOD VS. TAC

「アメリカン・ゴッズ」"American Gods"

Season 1:2017年 アメリカ Starz

製作総指揮:ブライアン・フラー、マイケル・グリーン
出演:リッキー・ウィットル、イアン・マクシェーンエミリー・ブラウニングパブロ・シュレイバークリスピン・グローヴァー、 ブルース・ラングリー、ジリアン・アンダーソンほか


「アメリカン・ゴッズ」では、さまざまな人種や民族の寄せ集め国家であるところの現代アメリカを舞台に、〈古い神々〉と〈新しい神々〉の戦いが展開される。〈古い神々〉とは、土着的な民族宗教からキリスト教イスラム教といった世界宗教までを含み、古今の人びとの信仰の対象となってきた――いわゆる、「神」といわれたときにぼくらが思い浮かべる――者たち。かれらはかれらを信仰する民族が移民としてアメリカへ渡る際に同行したらしく、いまではアメリカ各地で普通に人間の姿をして生計を立てている。しかし、〈古い神々〉の多くは力を失っており、それは近代以降の人びとから崇拝されなくなって久しく、現代人の信仰はもっぱら〈新しい神々〉――グローバリズムや科学技術、メディアなど――へと向けられているからである。〈古い神々〉は信仰心の回復と自らの再興のために、〈新しい神々〉に戦いを挑むが……

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 しかし、胡散臭くそれでいてどこか偉大な〈古い神々〉か、あるいは尊大だがいまや必要不可欠な存在である〈新しい神々〉か、果たしてぼくらはそのどちらを選択すればいいのか――というより、むしろぼくらに選択の自由はあるのだろうか。

 この問題に答えるためには、まず「人間にとって神とはなにか」という問いからはじめなければなるまい(ここからは「「集団理性」の提唱」(柴野拓美=著)を大いに参考にしたことを記しておきます)。「アメリカン・ゴッズ」のなかでもそう語られるように、神と人間の関係は実はさかさまである。つまり「神が人間を創造した」という因果関係を逆転させた、「人間が神を創造した」という文言こそが真である。
 では、なぜ人間は“神”という概念を、〈古い神々〉を必要としたのだろうか。
 これは、ヒトが時間を知覚し、かつ長いスパンでその時間を記憶できることに起因すると考えられる。ヒトは“いま”という時点の現実だけではなく、その前後の広がりをもって現実を認識している。犬や猫や野生の動物が、そのときそのときの目の前に立ち現れる現実に没入し、“いま”の刺激にたいする応答で――無駄が一切なく、美しいとさえ思える、「自然な」動きのみで――生きているのとはちがう。時間的に前後してあるふたつの事象が起きたとして、動物はそのふたつを個別の刺激として捉える以外の術をもたないが、ヒトはその時間的な前後関係を把握できることによって、前の事象=「原因」、後の事象=「結果」であると関連づけずにはいられない。
 かくして、古代人は迷信を含む数多くの「**すると、**になる」というような因果関係を取り集め、虚実や益害入り混じった膨大な量の「だから、**してはいけない」というタブーや「だから、**なるだろう」という吉兆/凶兆を含む、体系に囲まれて暮らすこととなった。そして、やがて人間はその体系の中心に――あるいは、全体を包括するものとしての――超越的存在を据えることで、世界というものを受容しようと試みる。そのための発明が、「神」であることはいうまでもないだろう。結果的に、「宗教」という感性的な信仰は、当時、科学が発達していない段階における人間集団を外界の脅威から庇護し、安定した生活のうえに繁栄を築く、という役割を果たした。
 しかし、次第に外界の脅威は克服され、外ではなく人間社会内部の問題が看過できないものになりはじめると、「神」の権威は「人間」に取って代わられるようになった。神の存在によって正当化されていた、盲目的なツリー構造による格差や権力の腐敗などによる抑圧は、民衆の意識のなかに理性的な観念を生じさせるに至り、ルネサンス――人間の再生/解放運動――の時代を経て、神と決別し、人間の理性を拠り所にすることで人びとの自由と平等を保証する「近代ヒューマニズム」が誕生したのである。以降、人間集団を繁栄させた道具としての「宗教」は後退し、ヒューマニズムに立脚した「イデオロギー」がそのあとを継ぐことになった。

   †

 ここまで、人びとの意識の基礎構造が「神」を必要とし、やがて「人間」へと変遷した、古代から近代にかけての経緯をざっくりと記したわけだが……現在、第二の転換が進行中であるのかもしれない。どうやら、人間は〈新しい神々〉を創造しようとしている、というわけである。
 柴野拓美氏は「「集団理性」の提唱」のなかで、「統率者の地位の下落」(日本における、上位のポストに就きたがらない社会人の増加)などを例に挙げて、ヒューマニズムによって「人間の平等化=上下関係の喪失」を目指していた時代はいつのまにか終わろうとしており、そのさきには「上下関係の逆転」が待ち受けているのではないか、と述べる。つまり、〈新しい神々〉が未来における新たな超越的存在――そこまで大げさなものでなくとも、統率者――としての地位に立ったとき、人間はそれに従属的な下位の立場であったとしても、そのことをトップダウンな抑圧であると感じるのではなく、むしろその立場に居心地の良さを覚えるような精神構造を整えるための期間が現在にあたるのではないか、というのである。その未来の神とは、高度に発達した「機械」である。
 この未来に関して、柴野氏はとても「愉快な譬え話」を紹介しているので(ぼくはこの話が好きで忘れられないでいるので、「アメリカン・ゴッズ」を観たとき、すぐさま思い浮かべたのがこれだったというわけです)、引用したい。原典をあたることができなかったので孫引きで申し訳ないが、「あるコンピュータ業界誌に載った座談会記事」だそうだ。

 ――昔、人間は、自分で自分の行動に責任を負う重荷に堪えきれず、何か頼るものを見つけて安楽を得ようとした。そこでモデルに選ばれたのが、飼い主に生殺与奪のいっさいをまかせて気楽に暮らしている犬であった。その真似をしようと、人間は「DOG」をさかさにした「GOD」という存在をひねり出して、みんなはその召使いということにし、すべての責任をそれに転嫁してしまった。ところがやがて、そのGODの存在が目ざわりになってきた。犬が主人にひたすら尻尾をふって恭順の意を示すように、いつもGODに祈りをささげ服従を誓うのは面倒くさくてしょうがない。ところがやがて、もっと都合のいいモデルが見つかった。人間にまったく媚びることなく生活の世話をさせている猫である。これだ、というわけで、いまや人間は「CAT」をさかさにした「TAC」を創造しようと躍起になっている――

(「「集団理性」の提唱」)

 ここでいう「TAC」というのは、さきに述べたように人間の能力を遙かに超えた機械のことであるが、つまり、人間はTACという奴隷に全権を委任することで「飼い主」とし、自らはその下で気ままに暮らす「ペット」としての地位におさまる――そうした上下関係を逆転させた未来が想像されている。
「アメリカン・ゴッズ」では〈新しい神々〉として、グローバリズムを司る〈ミスター・ワールド〉を筆頭に、科学技術の神〈テクニカル・ボーイ〉、メディアの神〈メディア〉が登場するが、これらは到達点であるTACが誕生するまでの段階における暫定的な神々だとは考えられないか。自然科学中心となった近代以降、すべてが均一なネットワーク型世界観の構築がはじまり、メディアは強力に人びとの思考を方向づけ、グローバル化によってイデオロギーの対立は減少する。最終的に人びとが意識の基盤に置くのは、もはやヒューマニズムに立脚した「イデオロギー」ではなく、機械を中心としたなにか別ものであった、という事態になりはしないだろうか。

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 しかし――ここで冒頭の疑問に戻って――、たとえTACによる管理社会への遷移に抗いたくとも、ぼくら個々人に選択の自由はないのかもしれない。
 柴野氏が提唱する「集団理性」とは、ここまで述べてきたような人類の発展を例にしたとき、それが「集団内でそれに関与した個々人の理性から――つまり各個人が意識的にその方向をめざすことで――生まれたものではなく、各自の意識内容と直接には無関係な総合的効果の発現だった」として説明されるものである。そして、それを現在進行中のこの状況に関していえば――

いかなる個人も――政治家も、宗教家も、哲学者も、直接その作業にたずさわっているコンピュータ学者もソフト生産者も――その進行に主体的に干渉することはできない。そこでは、開発者の意欲や反省、需要筋からの要望や反響など、近視眼的な無数のアイデアとそのフィードバックが、それこそなんの大局的な視野も判断もなくやみくもに取りこまれることによって 、膨大なソフトウェアの集合体が着々と積みあがりつつある……言葉を換えれば、現在すでに、地球上の主として先進地域の「集団理性」が、そのようなかたちで自走しているということである。

(「「集団理性」の提唱」)

 とはいえ、「集団理性」がもしも個人理性の集合であるならば、一人ひとりが〈新しい神々〉にたいして問題意識をもって行動することによって、その総合的効果として発現する集団理性は多少なりとも変化するはずである。その際、ぼくらが思考の拠り所とするのは「ヒューマニズム」、あるいは〈古い神々〉の「宗教」ということになるだろう。
〈古い神々〉が人びとの信仰を少しでも取り戻したとき、〈新しい神々〉の支配する未来は揺らぐかもしれない。