Opus 7

essays about moving pictures (or books)

What Is the Name of "It"?

「イット・フォローズ」“It Follows”

2015年 アメリカ 100分

監督:デヴィッド・ロバート・ミッチェル
製作:レベッカ・グリーン、ローラ・D・スミス、デヴィッド・ロバート・ミッチェル、デヴィッド・カプラン、エリック・ロメスモ
脚本:デヴィッド・ロバート・ミッチェル
撮影:マイケル・ジオラキス
音楽:ディザスターピース
出演:マイカ・モンロー、キーア・ギルクリスト、オリビアルッカーディ、リリー・セーペ、ジェイク・ウィアリー、ダニエル・ゾヴァットほか


 この映画は、ほかのホラー映画とどこか趣が異なっている。
「イット・フォローズ」を最初に観たとき、ぼくはそう思った。普通に観れば、アメリカの女子大学生が、セックスをすることでひとからひとへ感染する都市伝説的な亡霊である“それ”に憑きまとわれる、という話のホラーである。しかし、なぜかそう単純には胸に落ちなかったのである。
 ならば、普段よく観るホラー映画と較べて、実際どこがどうちがったというのか。それにはまず「ホラー映画」とはなにか、ということを整理したうえで、そこから逸脱する存在である本作について言及する必要があるだろう。これによって、「イット・フォローズ」の“それ”が暗喩するものも、おのずと浮上してくるはずである。

   †

「ホラー映画」とは一体なにか。
 あなたがある映画を観たとしてそれを怖いと感じたのならば、果たしてその映画はホラー映画たり得るのだろうか。
 黒沢清監督は、たとえば街を破壊する怪獣も猟奇殺人鬼もたしかに怖いが、「しかし、これはホラーではない」という。なぜなら、それらにたいしてぼくらが抱く“怖い”という感情は「克服可能なこわさ」の領域内にとどまっているからだ。怪獣は科学によって駆除できるかもしれないし、犯罪者だっていつかは逮捕されるか射殺される可能性がある。この怖さには逃げ道がいくらか用意されている。うまく対処しさえすれば、「人生はまた正常に動きだす」のだ。
 ということは、ホラー映画を観たぼくらが感じる怖さは、「克服不可能な怖さ」であるということであり、その克服不可能な怖さがホラー映画をホラー映画たらしめている。

 一方、ホラー映画がこわいと言った時のこわさは、そういうものとはまったく種類を異にする。例えばこうだ。塀の向こうに黒い人影が立っている。よく見るとそれは死んだ友人のようだ。あっと驚く。次の瞬間その人影は消えている。さあ、あなたはこの恐怖をどうやって克服するか? はっきり言って、少なくともあなたが生き続ける限り、このこわさから逃れる術はない。あなたの人生はこの時をもって大きく変質してしまったのである。

(「ホラー映画とは何か」『リテレール』別冊「映画の魅惑」1993年9月)

 その映画を観たことを境にして、不可逆的に、あなたはなにかに怯えはじめることになる――どうやら「ホラー映画」とは、そういう類の映画のことをいうようである。

   †

「ホラー映画」というジャンルの話は、このくらいにしておくとして……さて、「イット・フォローズ」の話である。
「イット・フォローズ」は、怖い。ゆっくりと、でも確実に迫りくる“それ”は、間違いなく怖かった。しかし、ほかのホラー映画とどこかちがうと思わずにいられなかったのは、おそらく“それ”にたいして感じた恐怖の種類が「ホラー映画」のそれとはちがったからだ。
 その切迫した心理状態は「卒業」マイク・ニコルズ=監督)や「ファイト・クラブデヴィッド・フィンチャー=監督)、「アメリカン・ビューティーサム・メンデス=監督)に通じるものである。つまり、“それ”からはたしかに逃れようがないのだが、“それ”の存在によってぼくらの人生が不可逆的に変わってしまうわけではない。誰もが“それ”を未来に据えて、あるいはほとんど“それ”の状態でありながらも、生きている。あなたはその名前を知っているはずだ――

 “それ”とは、「死」そのものである。

「イット・フォローズ」の主人公ジェイマイカ・モンローのボーイフレンドであるヒュー(ジェイク・ウィアリー)は、近くにいたこどもに羨望の眼差しを向けて「かれは無限の可能性を秘めている」と話すし、ジェイ自身も初めてのセックスを経験した後にこんなことをつぶやく。

「わたしね、こどもの頃、大人になってデートするのが夢だったんだ。気ままにドライブにでかけたりとか。イケてる彼と手をつないで、ラジオを聴きながら、きれいな道を車で走るの……たぶんどこか北のほうね、森が色づきはじめる頃に。行き先なんてどうでもよくて、自由に憧れてたんだと思う。でもいざ大人になると、どこに行けばいいのかな?」(ジェイ)

 かれらの言動は、こどもから大人になることへの怖れを滲ませている。こどもの頃、夢にまで見た大人の世界が、その実、ただ死に近い場所であることに気づきはじめている。町山智浩氏が言うように、自宅のプールで無為に漂うジェイが「卒業」のベンジャミンダスティン・ホフマンの姿と重なるのは、「偶然ではなく、ミッチェル監督の狙いだろう」(『「最前線の映画」を読む』)
「卒業」において、“それ”は大学卒業記念パーティーでベンジャミンがマグワイア氏からいわれるこの一言に象徴されている。

「君に一言、ただ一言……聞いてるか? プラスティックだ」マグワイア

 “プラスティック”……そのあまりに人工的で、生気のない物質……のっぺりとした手触りからくる空虚感……それは、一流大学をでて一流企業で働き、家庭をもち、プール付きの郊外住宅に暮らす、という社会にお膳立てされた生活のなかで「わたし」という個が消滅すること、言い換えれば、「死」を強く予感させる。
 事実――いや、フィクションなのだが――「ファイト・クラブ」の主人公「ぼく」エドワード・ノートンは都市のコンドミニアムに暮らす独身三十代男、「アメリカン・ビューティー」のレスター・バーナムケヴィン・スペイシーは郊外に住む所帯もちの四十代男であるが、前者は「物質文明社会」によって、後者は「失業の危機と、家庭で幅を利かせる妻の秩序」によって、「わたし」の内面の空洞化=「死」に瀕している。

   †

「死」を遠ざけるためにはどうすればいいか。
ファイト・クラブ」の「ぼく」という社会にたいしてなんら力をもち得ない個人は、自分自身を殴ることで自らの力の有効性を確認し、肉体に刻印される痛みによって生をこちら側にひきよせていた。「アメリカン・ビューティー」のレスター・バーナムはといえば、中産階級における一般的な義務と責任を放棄して、二十年の若返り――つまりは、青年時代への自覚的な退行――を図る。会社を脅してせしめた金でマリファナを吸い、若き日に憧れた70年型ファイアーバードを買ったかと思えば、それは妻の凡庸な経済的成功の象徴である小ベンツをガレージから締めだすためのバリケードとしての機能に終始し、かれはようやく手に入れた自分の居場所であるそのガレージで肉体を鍛錬するのである。
 セックスについても同じである。「卒業」でロビンソン夫人アン・バンクロフトがベンジャミンを誘い、ベンジャミンがそれに応じるのは、しのびよる「死」を一時的に隠蔽し生を実感する手段がセックスであるからだ。「イット・フォローズ」において、セックスは“それ”に憑きまとわれる原因――いうまでもなく、大人への第一歩――であると同時に、“それ”から逃れるための手段でもあるのは、このためである。
 とはいえ、これらは所詮その場しのぎの対処法に過ぎず、根本的な解決策にはなり得ない。なにしろ相手は「死」なのである。
 この映画の長回しのオープニングを思い返せば、それをはっきりと思い知らされる。カメラがゆっくりとパンすると、映しだされた家から若い女が飛びだしてくる。寝間着姿で、赤いハイヒールを履いた女。カメラはなおもゆっくりと動いて、女を画面の中央にとらえて離さない。画面の隅や外から近所の女性や父親が「大丈夫?」「どうしたんだ?」と女に話しかけるが、カメラがついにそちらをふりむくことはない。女が慌ただしく車を発進させ遠のいていっても、焦らず、落ち着いた、ゆっくりとした動きでそれを追う。余裕なのだ。急がなくとも確実に標的を仕留められるとわかっているのだ。数カット後、女は死体になっている。

 しかし「死」が横行する大人の社会にあって、どうにか救済になり得るイノセントな部分がぼくらに残されているのだとすれば――、“愛”や“恋”といったもののことをいうのだろう。それは、ともすると「わたし」という個を見失い、「死」にからめとられそうになる世界で、唯一信頼に足る感情だ。なぜか、これだけは他のなにものからも干渉されることなく、「わたし」の内側で、静かに……でも、たしかに赤熱する熾のようなものに思えるのだ。
 ジェイは友人たちと一緒に8マイル通りを越えて、“それ”と正面から対峙する。8マイル通りは歴史的に見て、この映画の舞台であるデトロイトを「あちら」と「こちら」に分断する境界線であることから、かれらは「こちら」=大人の世界へと本格的に踏みこんだ、ということにちがいない。そして、どうにか“それ”を撃退した後に、ジェイは友人のひとりであったポール(キーア・ギルクリスト)と恋に落ちる。ラストシーン――そこには、手を繋いで幸せそうに歩くかれらと、その背後にしのびよる“それ”らしき人影が映しだされている。
 それはまるで「卒業」で、ベンジャミンが教会から花嫁を連れだしてバスに駆けこんだときに見せた、無垢な笑顔とそれから……ふと、われに返って前方を見つめるこわばった顔である。あるいは、高層ビルが破壊される風景を背に「ぼく」が一瞬の愛を告白する、「ファイト・クラブ」のあの切ないハッピーエンド。またあるいは、壊れた家の壊れた男がその人生の終わりに無垢な少女の存在によって、自分の世界に“美”は実在したのだと知る、「アメリカン・ビューティー」の結末――
 およそその愛は長もちするものではないが、それは人生における一瞬の祝福なのである。