Opus 7

essays about moving pictures (or books)

母の記憶をめぐる断片的な回想

「紙の動物園」“The Paper Menagerie” ケン・リュウ=著、古沢嘉通=訳

『紙の動物園』(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)所収

紙の動物園 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

紙の動物園 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

 


 あなたが誰かのことを想うとき――
 あなたは頭の奥底からそのひとのイメージを思い起こす。丁寧に線を引きながら、顔や姿を直接的に思い描こうとする。だが、これはあまりいい方法とはいえないかもしれない。いくつかの線が漸くひとつの像に結実しはじめるそのとき、浜辺に押し寄せる波に砂城が攫われてしまうかのように、そのひとの姿は彼方へと遠のいていく。
 だが、あなたの手元には「紙で折られた小さな動物」がある。たとえばそれは、あなたが想うそのひとから贈られた「品」であり、思い出やひとの想いといったものが折りこまれた特別な「物」のことである。それらは頭の片隅でほこりを被った記憶をそっと甦らせるだろう。回想されるシーンのなかで呼び覚まされる人物――その輪郭はずっとクリアで、色彩はずっと鮮やかだ。そんなとき、あなたはあなたの掌にある「物」が、魔法の道具のように思えるのではないか。

   †

「紙の動物園」の主人公である「ぼく」は、混血のアメリカ人である。
 アメリカ市民の男性はカタログから中国出身の女性を選び、買われた女性は満足に英語も喋れないままに、香港から男性がいるコネチカットへと移り住んだ。そして、ふたりのあいだに「ぼく」が生まれた。すこし複雑な事情はあったが、「ぼく」がまだ幼い頃の家庭にはそれなりの幸せがあった。
 しかし――、現実は残酷だ。
 アメリカ生まれのアメリカ市民である「ぼく」。白人とアジア人のハーフである「ぼく」。
 混血の子はアメリカ人の共同体のなかにあっても、異質な存在だ。周囲からは異なる容姿で差別され、片親が属していたというだけの自分からは縁遠い文化を引きあいに揶揄される。
 集団からの孤立を恐れる心理は――あるいは、その心理を誘起させたものが――次第に「ぼく」をアメリカ文化に染めあげる。母の話す中国語を拒否させ、母が作る中華料理を拒否させ、自分の血に混じる母のそれを拒否させていく。アメリカの暮らしに馴染むことができずにいた母を、「ぼく」は軽蔑した。

 ときどき、家に帰ると、母さんが小柄な体で台所をせわしなく動きまわり、中国語の歌を口ずさんでいるのを見かけることがあった。あんな女性が自分を生んだとは信じがたかった。ぼくらはなにひとつ共有しているものがなかった。母さんは月からきた人間みたいなものだった。ぼくはいつも自分の部屋に急いで入った。そこにいけば、どこまでもアメリカ的な幸せを追求しつづけることができた。

 文化的齟齬によって心理的に遠く離れていく親子――それは、ケン・リュウという作家の生い立ち(中国で生まれ、11歳のとき両親とともにアメリカへ移住)に負うところが大きいのだろうか。「紙の動物園」で語られる母と子の関係は、そんな現実味を帯びた痛ましいものなのに……そのはずなのに、美しい。

 母の死後、「ぼく」の前に小さな虎が姿を見せるのだ。それはかつて母がわが子のために、クリスマス・ギフトの包装紙でこしらえた折り紙の虎である。母は紙の動物たちに命を吹きこむことができた。
 まだ幼かった「ぼく」が自然と受け入れ、戯れていたはずの小さな動物。
 疎遠になるにつれて、「ぼく」が忘れてしまった母の魔法。
 エキゾチックに象られた魔術的なアジア文化が、ふたたび「ぼく」と交叉する。西洋化された「ぼく」の狭窄な世界像、その頑なだった結び目がほどかれる。そして「ぼく」は、母の背後に隠れた悲惨な歴史を知り、母が抱いていた息子への愛に触れることになる。

「ぼく」は亡き母を想う。
「ぼく」にとっては魔法そのものである、紙の動物を見つめながら――