デザインされた肉体の運動

ジョン・ウィック」“John Wick”

2014年 アメリカ 101分

監督:チャド・スタエルスキデヴィッド・リーチ
製作:ベイジル・イヴァニク、デヴィッド・リーチエヴァ・ロンゴリア、マイケル・ウィザリル
製作総指揮:キアヌ・リーブス
脚本:デレク・コルスタット
撮影:ジョナサン・セラ
音楽:タイラー・ベイツ、ジョエル・J・リチャード
出演:キアヌ・リーブスミカエル・ニクヴィストアルフィー・アレンイアン・マクシェーンウィレム・デフォーほか


 ここまで潔く、物語ることを放棄する映画も珍しい。なんと言ってもこの映画、マフィアに愛犬を殺された元殺し屋の男キアヌ・リーブスが復讐する――たったそれだけのお話なのだ。
 映画の世界には、誘拐された娘を奪還せんとする元秘密工作員の親父がいたり、息子を殺したギャングを処刑するベーコン(笑)がいたりする。とくに最近のものに限らなくともアクション映画にとっての“復讐劇”とは、無駄を省いたシンプルなプロットに一本のサスペンスの糸をぴんと張り、そのうえでアクションを展開するひとつのスタイルであり、それは別に物語を軽視しているわけではなく、戦略だ。
 ならば、なぜ「ジョン・ウィック」は物語ることを放棄しているというのか、ほかの映画とどこがちがうのかというと……「犬」だから。演出家の扱い方次第で動物は安易な感情移入の対象になってしまう、あるいは感情操作の道具になる場合があるから。たとえば押井守監督は、「刑事コロンボ」でコロンボの飼っているバセット犬を「最悪なケース」だと言っている。

 本来、コロンボというのはとてつもなく嫌なヤツで最低の人間だ。ネチネチと人の心理の裏をかいて、他人の生活にズカズカ入り込んできて、とぼけたふりをして核心のところにボソッと入ってくる。そのままでは誰もが嫌なヤツと思ってしまう。そこで、バセット犬を出す。「こんな嫌なヤツでも本当は人間としての違う側面を持っているんだよ」という救いを出しているわけだ。それは姿を現さない「ウチのカミサン」と一緒であって、人間のアリバイづくりの道具として動物を使っているに過ぎない。「犬の好きな人間に悪い人間はいない」という思想を押しつけ、動物を人間の言い訳にするのは、いちばん低俗なパターンだ。

(「動物と映画のアヤシイ関係」月刊「ワイヤード」1997年7月号掲載)

ジョン・ウィック」のビーグル犬は、まさにジョンの復讐を正当化するための便利なツールだ。映画の序盤において、いかに短時間で、いかにお手軽に、観る者の感情移入を誘っておくか――そんな大衆食堂的魂胆のもと、開始15分で訪れる愛犬の死を免罪符に、映画は怒涛のアクションシーンへと移っていくのだから、物語なんてないに等しい。あったとしても、それはアクションのための言い訳めいたものでしかないだろう。

 しかし、この映画がまったく面白くないかと言うとそんなことはない。
 ぼくがこれほどまでになにも語らない脚本を逆に“潔い”と言うのは、映像のなかに監督のフェティッシュを観たからであり、思うにそれを先行させた結果として、脚本は極限まで切り詰められたのだ。
 それとは、つまり――「デザインされた肉体の運動」としてのアクションを撮影する、という非常に映画的な欲望だ。
 同じ欲望に支えられた映画には、まず香港映画がある。身体がある相から相へと目まぐるしく転変し、力強く躍動するカンフーアクション。70年代初頭以降、香港映画はアクション映画に影響を与えつづけている。99年の「マトリックスウォシャウスキー姉妹=監督)は、その香港映画テイストのアクションを日本アニメ的演出で見せたという意味で――たとえば、バレットタイムCGIを高度に融合させたSFXによる「弾よけ」のシーンなどは――機知に富んだ映像だった。そして「マトリックス」以降――あるいはジョン・ウーがリアリティはさておいて「華麗」な銃撃戦を撮ってから――の荒唐無稽なアクション様式の極北に「リベリオン(カート・ウィマー=監督)ガン=カタを据えるとするならば、その真逆に位置するのが「ジョン・ウィック」のガン・フーだ。
 キアヌ・リーブスの肉体の動きは、近距離で確実にターゲットを仕留めることに特化したそれであり、現実のCQC/CQB技術を採り入れてデザインされた射撃スタイルと格闘術は、「リアリティ」(あくまで「映画のなかにおいて」という条件つきのリアリティ)を保持しながらも見どころを失っていない。そこには「マトリックス」やジョン・ウー作品にあるような、大仰でドラマティックに演出されたアクションの派手さはない一方で、洗練された戦闘技術のディテールを愛でるという別な楽しみがある。ダブルタップ(確実にとどめを刺すため急所に二発撃ちこむ技術)の徹底ぶり、リロードのタイミング、射撃と格闘のスムーズな連携銃口で小突いたあと、流れるように故障排除するシーンは最高です)――この映画の快はそういった動作の細かな部分にこそ宿っているのである。