戦争 または「システム」は如何にしてひとを殺すか

「突撃」“Paths of Glory”

1957年 アメリカ 87分

監督:スタンリー・キューブリック
製作:ジェームズ・B・ハリス、カーク・ダグラススタンリー・キューブリック
脚本:スタンリー・キューブリックジム・トンプスンカルダー・ウィリンガム
撮影:ゲオルク・クラウゼ
音楽:ジェラルド・フリード
出演:カーク・ダグラス、アドルフ・マンジュウ、ジョージ・マクレディ、ウェイン・モリス、ラルフ・ミーカー、ジョー・ターケル、ティモシー・キャレイほか

 

Patriotism is the last refuge of a scoundrel.
愛国心とは、ならず者の最後の砦)

サミュエル・ジョンソン

 

「戦争」というのは“システム”だ。それも醜く歪んだ、とても滑稽なシステム。
 なにも戦場に転がった即物的な死のみが、ことさらに戦争の醜さを標榜するわけではない(たしかに映像的には、ことばや物語を超えて雄弁なのですが)。人間を鈍感な殺戮マシーンに調整する「軍隊」。カネや名誉、国家のために戦争を遂行し、兵士=駒を操作する「意思決定機関」。兵士達の躰をただの物体に還元し、消費する「戦場」。その総体としての「戦争」というシステムがそもそも醜いのだ。そして、そこに巣食う「ならず者」もまた……。
 スタンリー・キューブリックは、そのフィルモグラフィにおいて奇怪に捩じれた人間関係――ディスコミュニケーション――を冷徹に見つめつづけた作家だ。なかでも「博士の異常な愛情」「フルメタル・ジャケット」は歪んだシステムとしての「戦争」を糾弾する名画であるが、そのスタイルはかれの劇場映画4作目にあたる「突撃」ですでに完成されていた(「時計じかけのオレンジ」のナッドサット語を字幕翻訳した原田眞人監督は、「2001年宇宙の旅」をさしおいて「突撃」をキューブリック・オールタイム・ベストに挙げるほど)

 1915年、西部戦線は独仏ともに塹壕を構築し、膠着状態にあった。
 彼我両軍の塹壕線のあいだに跨る、さし渡し数百メートルの地獄――無人地帯とよばれるその空間は、焼け焦げた地面がデコボコとうねり、有刺鉄線があたかも荊棘のように枝を伸ばし、屍体が野ざらしにされている。塹壕から外へでて敵陣を攻めようものなら、炸裂する砲弾や機銃掃射の餌食になり、途端に地獄の住人と化す。
 そんな戦況で、フランス軍701歩兵連隊隊長ダックス大佐カーク・ダグラス独軍拠点“アリ塚”奪取のための突撃作戦を、上官ミロージョージ・マクレディ)から命じられる――

「5%が味方の砲火で死ぬ。これはおおよそだが。10%が無人地帯を、20%が鉄条網をとおり抜ける際に死ぬだろう。最悪の仕事のあとに残った65%、そのうちの25%が実際に“アリ塚”を奪取する」(ミロー)

 塹壕をあくまで毅然とした態度で歩くダックス。
 蛇行した塹壕の内側を画面におさめていく、滑らかなカメラワーク。
 ダックス/カメラに何人もの兵士の視線が向けられるが、そのどれもが戦争による不条理な死を見据えて、憤り、怯え、ふさぎこんでいる。戦場を前にして、数秒後に訪れるかもしれない死を想像する恐怖。自分自身の生が思いがけず、理不尽に、どんづまることのやりきれなさ。じわじわと忍び寄り、ついてまわる“死”のにおいが映像から発せられる。
 そして、作戦は開始される。
 狭々とした塹壕から一転、ひらけた無人地帯に悪意を遮るものはなにもない。701歩兵連隊の勇気ある愚かな前進は、平行移動するドリーショットによって捉えられ、かれらが一人またひとりと死に絡めとられていくさまを画面に映しだす。しかし、一方で敵軍の姿はそこにない。この映画からは自覚的に“ドイツ軍”の姿が排除され、砲弾の爆発と機関銃の弾丸が空を切る甲高い音が「敵」の存在を感じさせるのみである。
 兵士は、「戦場」 に殺される。
 戦争を囲いこむ、悪意ある「システム」に殺されるのだ。

「ドイツの弾が嫌なら、フランスの弾を食らえ!」(ミロー)

 映画の後半――「戦争」のひずみは、もっと露骨に、わかりやすいかたちで現出する。
 退却を余儀なくされた701連隊。かれらの作戦失敗は敵前逃亡/命令不服従が原因であるとされ、三中隊からひとりずつ選ばれた代表三人が軍法会議にかけられる。そして、見せしめに処刑されてしまうのだから。
 膠着状態打破の功績とそれによる昇進のために無謀な突撃を命じておきながら、その失敗の責任を回避するミローのエゴと怠惰。真実を明らかにすることよりも「指揮命令系統」の維持を第一とする軍法会議の体質。「ならず者」はシステムのなかに巣食い、システムは「ならず者」を庇護する砦だ(その表象である司令部の置かれた邸宅は、ひとの生き死ににかかわるはずの戦場には場違いなほど豪奢で、ロココの装飾はとても禍々しいです)。そのようななかにあって正義や人道を信じるダックスは部下三人を弁護しようとするが、それさえもかれがただの無力な個であることを痛感させ、システムがどんなに大きな存在であるかを証明するひとつに過ぎない。

 しかし、キューブリックはこの映画の最後にわずかな救いを込めてもいる。
 フランス軍の兵士たちが、ドイツ人の少女が歌う唄に涙を流し、声を重ねて口ずさむ風景――それはここに至るまでの冷たく、悲観的な物語にたいしてあまりに感傷的で美しい。まるでディスコミュニケーションを描きつづけたかれのフィルモグラフィが、「アイズ ワイド シャット」で幕を閉じたように――