「物語」という仮想現実――人類の浸透と拡散の風景

「夜と泥の」飛浩隆=著

『象られた力』(ハヤカワ文庫JA)所収 

象られた力 kaleidscape (ハヤカワ文庫 JA)

象られた力 kaleidscape (ハヤカワ文庫 JA)

 


 太陽は北の地平線に沈んだ。ナクーンの沼地には巨大なブルドッグ――大型土木工作機械の残骸――がたたずみ、薄い残照に孤独なシルエットを抜かれていたが、その輪郭もだんだんと濃くなる暗闇のなかでぼやけていく。湿り気を帯びた薄闇が、沼と沼をとりまく森を支配する。
 まったき静寂――

「夜と泥の」を読みはじめるなり、ぼくの頭のなかには異星の沼地の美しくも哀愁漂うイメージが構築される。「いま、ここ」ではない世界が、たしかな像を結ぶ。

 ――その夜のキャンバスを彩るようにして、生命の饗宴がはじまる。
 トクトクトクという虫の鳴き声が叢から叢へと連鎖し、やがては沼全体を覆うようにビート音が波を打つ。四方から発せられる鳥の喘ぎや絶叫。残響感のある鐘の音(これも生き物が発する音であるらしい)。粗野なリズムの音塊による“ちから”が、辺りに充ちていく。
 月が南の空にのぼり、青白い光が落ちる。水面の、魚類や両生類が蠢きひしめきあうようすが照らしだされる。見あげれば、空に飛翔する有翅昆虫の群体。そのカーテンのはためきは月光に干渉し、陰翳のゆらめきが沼地を幻想的に演出する。

 もうすぐだ――それはわかった。遠からず姿をあらわすそのものにむかって、この沼のすべての音と動きが急速に収斂しているのだ。この大騒ぎ全体が、それを招ぶための歌なのだ。

 いまや、読者のぼくは登場人物である「私」との同期を完了していた。
 友人の蔡(ツァイ)の隣に座り、この沼地で興っている「大騒ぎ」を実質的な現実として観察していたし、終局に「姿をあらわすそのもの」の正体を見さだめようとしていた。
 なにかが起ころうとしている――その兆しを、ことばによって喚起された「五感」で感じとっていた。

 ここで、「仮想現実」という用語が思い浮かぶ
 仮想現実、あるいはVirtual Realityと言うと、2016年にはHMD(ヘッド・マウント・ディスプレイ)を装着することで得られるリアルな映像体験が注目されたこともあって、コンピュータの演算によって現実をシミュレートしたサイバースペースを現実と同等なものとして認識させる技術である、と多くのひとは理解しているかもしれない。
 しかし、「いま、ここ」の制約からの解放によって人間の肉体器官や感覚を拡張することが、仮想現実の本質であるとするならば――、
「物語」とは、プリミティヴな仮想現実だとは言えないか。
 大昔の神話や説話にはじまり、現在の小説に至るまでの――さらには漫画/アニメ/演劇/映画等を含める――「物語」にふれるとき、それが現実に即したものであろうと、どんなに現実離れしたものであろうと関係なく、ぼくらは現在の時空を超えて「もうひとつの現実」に没入する。想像力を羽ばたかせて、未知の感情や感覚までをも、生々しく追体験する。
「夜と泥の」は、物語がもつ仮想現実としての楽しさに充ちている。
 飛浩隆によって配置された“文字”――その図形情報を入力された脳は、それぞれのことばに対応する感覚を検索し、呼び起こし、再現する。そして、読者は累積した五感を手がかりとして、紙のうえにしか存在しないはずの見知らぬ世界を「覗きこむ」。
 ぼくはナクーンの沼地の、美と崇高が融けあった風景を「視た」。生き物たちが奇蹟を招ぶ歌を「聴いた」。泥の匂いのうえに盛りつけられた臭気と芳香を「嗅ぎ」、なまぬるい夜の湿気や微熱を「感じた」。

 しかし、この押し寄せる感覚の彼方になにが待っているのだろう――

 場面はカットバックして、碗の底で赤い花びらが泳ぐ茶やうまい泥蟹を「味わう」席で、蔡は「私」にナクーン・デルタの秘密を明かす。

「大むかしのいいつたえにあるよ。夏至の夜には奇怪な事件が起こるとね。たぶん妖精かなんかがはねまわるんだ」(蔡)

 かれ曰く――、
 人類が入植する天体がもれなくそうであるように、この星もリットン&ステインズビー協会によって生態系の改造を施された。天には地球化複合体テラフォーミング・コンプレックス)である四つの人工衛星が君臨し、最上位〈ベルヴァード〉の指揮下にある〈セリューズ〉〈カプリシューズ〉〈サンギュリエール〉は各々が統治する領土で地球化を行う。
 だが、なぜだろう。ナクーン・デルタのある沼地では、年に一度、地球化の繊細なプロセスに反する現象が起こる。
 それは、ジェニファー・ホールという少女の甦りの奇蹟。
 地球化複合体の地球種遺伝情報ライブラリにまぎれこんだジェニファーの遺伝情報を、〈サンギュリエール〉がどういうわけか参照し、地上の分子機械群によって肉体が鋳造される。そして夏至の夜、ひとりの少女が泥のなかから立ちあがり、青白い月の光を浴びてその姿を見せるのだ。

「私」は/ぼくは、その光景を見る。「夜のヴィーナス、泥のアフロディーテ」の誕生を――

「遠い遠い未来、複合体も半昆虫も分子機械もとうに死に絶えたあと、ナクーン・デルタの生態系がどうにかして生きのこり、変異と淘汰のはてに自意識をそなえた知性をうみだすことがもし万一あるとすれば、なあ、われわれは、その日のためにいま神話の種を蒔いているのではないか? その時代の知性は夜ごとジェニファーの夢を見たりはしないだろうか……。われわれの見ることのない空にジェニファーの肖像をさがして仰いだりはしないだろうか」(蔡)

 人類がひとつの恒星系からさらに外の宏大な宇宙へと拡散し、入植したどの星系でも自閉的な社会がつくられた未来。もしかすれば人類は宇宙という広すぎる空間のなかで、その存在の濃度を薄めているだけなのではないか、と危惧される未来。
 そんな未来で見る少女の再生劇は、ひとの夢想にあたたかな希望をそそぎこむ、とても甘美で神秘的な風景だ。
 人類はただ無意味に宇宙に拡散したのではなかった。人という種が存在した記憶は、「神話」として地球以外の土地に刻みこまれようとしている。これは浸透だ。
 思わず、SE(感覚拡張)システムによって知覚レベルをあげて、なおいっそう「刺激的な五感」でその風景を感じてみたくなる。「蛍光性微粒子のように音もなく降りしき」る月光。伸び縮みする「ゴムのようにあやふや」な遠近感。「巨大なすりばち状にゆが」んだ沼の水面。その底部にたたずむ、ジェニファー・ホール。
 躰は外へと滲みだし、外界がまるで自分の一部であるかのような、自分と神話的な“場”とが渾然一体となったかのような、感覚をおぼえる。

 しかし、ここに至って「私」が/ぼくが見る風景は――反転する。
 空間を支配する“ちから”に接続したからこそ、悟ってしまう。そこに地球化複合体の、人間の意志はない。ナクーンの沼地に潜在するもっと古いちからが、複合体を介して作用しているのだということを。頭のなかでリフレインするのは、やはり――

 人類の希釈化……。

 地球化は、湿地帯を“おなじみの密林”にしてしまう? “落地生根”という華僑の諺にあるように、地球種生物は異星にみごと適応し、微妙に姿を変え、繁殖していった?
 違う、おそらく真実はその逆だ。
 眼の前の風景は、異星に喰われとりこまれた“地球”だった。人類が浸透し、宇宙を咀嚼しているというのは――「私」が8×8の市松模様をチェス盤だと思い違えたように――幻想に過ぎず、宇宙こそが人類を咀嚼している。

「あれは、おまえの言うような神話の自然発生なんかではない。この星の神話が地球の言葉で上演されただけだ」(私)

 ジェニファー・ホールへと視線を移す。もはや彼女は――

 魚の目。まぶたのないまるい目が私たちを見つめていた。くちびるのない、切り傷のような口。筋肉のつきかたは不自然だった。上膊よりも肘から先が発達して、手指には関節がなかった――そのように見えた。くすんだねずみ色の肌のうえにたっぷりと泥をかぶり、それが半乾きになっている。

 ――彼女は、人ではなくなっていた。 

 そして、朝が来る。一夜限りの神話の上演が終わり、かつてジェニファーだったものとともにあらゆる気配が消えていく。
 ぼくは、異星の沼地にぽつんと残された土木工作機械の残骸を見る。
 これは墓碑だ、と思う。でもいつの日か朽ち果てて、人類の存在は忘れ去られてしまうのだろう。すこし残酷だが、その静謐な風景もまた美しく、ぼくはどこか安らぎを感じていた。