多声音楽とその残響音

フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」“Frankenstein: or The Modern Prometheus” メアリー・シェリー=著

フランケンシュタイン』(光文社古典新訳文庫)所収、小林章夫=訳

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

 


  『フランケンシュタイン』の表紙をめくる。そこには題辞として『失楽園ジョン・ミルトン=著)からの引用が記されている。禁忌を破り、知恵の実を食べた罪により楽園を追放されたアダム――かれが神に嘆き訴えることばである。

創造主よ、土塊からわたしを人のかたちにつくってくれと
頼んだことがあったか?
暗黒からわたしを起こしてくれと、
お願いしたことがあったか?
(『失楽園』)

 さらに頁をめくり、読み進める。著者メアリー・シェリーが書いたのは、自ら創造した怪物の醜さを嫌悪する科学者ヴィクター・フランケンシュタインと、生みの親からも社会からも拒絶された怪物の、悲哀に充ちた物語だ。
 怪物は、創造主ヴィクターにこう訴える。

 ああ、フランケンシュタイン、ほかの人間には優しいのに、なぜおれだけを踏みつけにするのだ。この身体はおまえの正義、いやおまえの慈愛を受けてしかるべきなのだ。忘れるな。おまえがおれをつくったのだ。おれはアダムなのだ。
(『フランケンシュタイン』)

 そう、この『フランケンシュタイン』という物語の基底音には『失楽園』のモチーフ――創造主と被造物の対立――が低く鬱屈と鳴り響いている。

 ところで、「フランケンシュタイン」と聞いてたいていの人が思い浮かべるイメージは、どういったものだろうか?
 異様に長くて扁平な頭部。広くせりだした額。傷痕や縫合痕の目だつ蒼白な顔面。どういうわけか頸から突きでているボルト。そして、唸りをあげながら破壊と無差別的な殺人を繰り返す、あのボリス・カーロフが演じた映画「フランケンシュタイン(ジェイムズ・ホエール=監督)の怪物ではなかろうか。
 人間や動物の死体の断片を継ぎあわせて創られたそれは、「恐ろしく」も「醜い」姿にちがいない。映画において怪物のビジュアルはまさに観る者が恐怖し、その醜さに強烈な嫌悪感を感じるように仕立てられている。映画という視覚的な媒体は怪物に具体的な姿を与え、「フランケンシュタインの怪物」はホラーを代表するモンスターの記号としてあまねく人口に膾炙した。しかし、容貌だけならまだしも、その内面についてまでも原作より映画のイメージが先行している状況を、ぼくなんかはいささか残念に思うのだが――。

 原作の「あいつ」は、犯罪者の脳を移植された映画版のように常軌を逸した殺人鬼ではない。純真無垢な魂と優しい心をもって、この世に生まれた。「移植された脳が正常であったから」というわけではなく、「脳が完全に初期化されていたから」というのがもっともらしい理由として推測できるが、ならば――なるほど、フランケンシュタインが創造した人造人間は、肉体こそ醜怪さを纏った巨漢であるが、その精神は赤子と何ら変わりない状態から出発したのだ。
 しかし――、
 あいつは瞼を開けるやいなや、生みの親が嫌悪と恐怖で顔を歪め逃走する姿を目撃し、実験室の冷たい空気が身に沁みるなかで棄児となる運命を背負う。ドイツの片田舎の侘しい小屋に身を潜めながら、こっそりと隣人家族の生活を覗き見ては人間のことばや思考を学び、偶然にも本(『若きウェルテルの悩み』『プルターク英雄伝』そして『失楽園』)を拾えば、これを読んで共感の涙を流し、「人間」として目覚めていきながらも、その醜さから幾度となく人間に迫害された果てに、あいつは人であろうとしても人から認められず、自分がなにももち得ない存在であることを嘆く。花嫁イヴ――命あるものと事物の連鎖に連なるための唯一の希望――を粉々に砕かれて、創造主を憎悪し、残酷な宿命を呪う。
 善良な赤子だった魂は、絶望にとり憑かれ怒りと復讐の色に沈んでいく。
 次第に反逆者ルシファーへと同化していくあいつは、フランケンシュタインにも制御不能な「怪物」となって、戦慄すべき惨劇を惹き起こしていく。

「人はみな妻を胸に抱き、獣にも連れがいるというのに、おれだけが一人なのか? おれだって愛情を持っていたのに、それを嫌われ蔑まれたのだ」(怪物)

 怪物の悲痛な叫びは、『フランケンシュタイン』という物語のなかでも格別の重苦しさを湛えている。映画版とちがって、怪物にたいして憐憫の情を抱かない者はいないのではなかろうか。なぜなら怪物は「悪」として生まれたわけではなく――「悪」として形作られるから。
 人間が善良なものを歪めて作りだした「悪」は、人間社会に反逆しそれを逆照射する。
 近代――ガリレイデカルトによる科学的世界像が世界を席捲し、人間の理性の力を謳った時代――において、メアリー・シェリーは「怪物」という存在を人間精神のもとには制御しきれないものとして、近代理性への逆説として描きだした。現在でも怪物はその無名性によって様々な寓意(たとえば、マイノリティへの差別や親によるネグレクトがわかりやすい)として捉えられている。

 怪物のあげる叫び声は、メアリー・シェリーの時代から現在までたしかに鳴り響く残響音だ。

 しかし、犠牲者である怪物の声ばかりを聴いて「人間よりも怪物のほうが人間らしい」などという不毛な感想で終わってしまってはもったいない。『フランケンシュタイン』は多声音楽である。この際、「怪物とはなにか?」という問いはひとまず置いておくとして、怪物の嘆きの孤独でメランコリックな旋律に重ねられるヴィクターのことばにも同時に耳を傾けるべきではないか。「どうしたら怪物のような被害者をださずにすむのか」という一歩踏み込んだ議論になるかもしれない。

 ヴィクター・フランケンシュタインは、『失楽園』に当て嵌めれば、怪物というアダムを見棄て、怪物というルシファ―に憎まれる創造主という役回りであるが――かれは、あるいは現代のプロメテウスでもある。
 プロメテウスギリシア神話のティーターン神族の一神)は天界から「火」を盗み、それを人間に与えた。その贖罪として、コーカサス山の頂に縛りつけられ、大鷲に肝臓を啄まれる。
  「この世界の自然科学的な秘密」へと探究の矛先を向けたヴィクターは、ユダヤキリスト教の神の領域に踏み込んだ生命創造の科学によって怪物を生みだした。そして愛する者を失っていくという罰を受ける。
  「火」を科学技術のメタファーとして認めれば、それは人類に幸福をもたらす暖かな燈火であると同時に、人類の滅亡を予感させる猛炎でもある。その二面性のコインの表側は、人間が火の保存のために獲得した時間的パターン認識という礎になり、その上に花開く高度な文明は輝く都市のビル群を真上へと伸ばしていく。
 コインを裏返すと争いや戦争に赤く染められた歴史があり、屍体が堆く積みあがっている――。

  「2001年宇宙の旅スタンリー・キューブリック=監督)には、「シマウマの大腿骨を使って世界初の殺人を犯したばかりのアウストラロピテクスがその骨を空中に歓喜に満ちてほうり投げ、それが、軌道を回る宇宙船になるという強烈なイメージ」(『人はなぜ殺すか/狩猟仮説と動物観の文明史』マット・カートミル=著)のマッチ・カットが存在する。

 ある日、寒さに震えていると、浮浪者たちが残していったたき火を見つけ、その暖かさに驚喜した。うれしさのあまり、燃えている中に手を入れると、痛さに声をあげてすぐに引っ込めた。同じものなのに、まるで正反対の結果をもたらすとは、何と不思議なものだと思った。(怪物)

 ヴィクターのパートが怪物の声に重ねるのは、科学的倫理観であり科学をとり巻く人間の欲望についてだ。

 ここで試みに、簡単にではあるがカントを引用しながら人間と科学技術について考えてみたい(これについては「術の小説論――私のハインライン論」(荒巻義雄=著)を大いに参照したことを記しておく)
 カント曰く、人間の精神の働きは「純粋理性」「実践理性」「判断力」の三つの領域に分けられる。知性に対置される純粋理性、道徳や倫理に対置される実践理性、そして人間が生活するうえでの思考を大きく支える「好き/嫌い」「良し/悪し」のような判断力。
 理想的な科学技術とは、ある問題を前にしたときに科学的知を含む知性の領域のどの知識が適用可能であるか、また同時にそれが倫理的に正しいか否か、判断力によって考えた末、技術とすることである。第一に知性の領域があり、第二に倫理の領域があり、その両領域に跨るように第三の判断力の領域があるという構図だが――しかし、この当然だと思えることが現実には難しい。
 人間の内には、世界の秘密の解明と体系的な理解を目的とした科学する欲望があり、科学を応用して人類や社会の幸福に貢献したいというような工学的な欲望があり、その他にも個人的な/企業の/国家の利益を求める欲望があり、これらが複雑に結びついて科学技術は生まれる。ときには欲望が先行し、倫理の頸木を解かれた「火」は人間にたいして猛威を振るう。インゴルシュタット大学の勤勉な学徒であったヴィクターが、(おそらく母の死や理神論の思想が関係して)いつしか納骨堂や遺体安置所に足繁く通うマッドサイエンティストとなって、怪物を創りだしてしまったように。

  『フランケンシュタイン』が出版されたのが1818年。
 その時点から時代は流れ、科学は原子力というパンドラの箱を開けた。

 ヴィクター・フランケンシュタインのことばは、科学的知=「火」の運用に警鐘を鳴らすものとして、メアリー・シェリーの時代よりも深刻さを増幅させながら現代まで鳴る谺である。

 自分の都合で末代までこんな呪いを及ぼす権利が、いったいわたしにあるのだろうか?(ヴィクター・フランケンシュタイン

  『フランケンシュタイン』の語りが三層の入れ子構造であることはよく知られている。怪物が身の上の不幸をヴィクターに訴え、ヴィクターが自らと怪物の悲劇を語り、ロバート・ウォルトンがヴィクターのことばの一字一句を書きとめていく。
 ロバートは北極探検の途中、怪物を追って遭難しかけのヴィクターを偶然にも見つけて介抱し、ヴィクターは北極点を目指すロバートの熱意に反射された過去の自分の行いとその罪を吐き出すのだ。
 そして――その物語がロバートの筆によってかれの姉マーガレットに宛てた書簡となり、怪物とその怪物を生んだ科学者の声は読者に届けられた。