Opus 7

essays about moving pictures (or books)

数百万マイルの宇宙のかなたから観察した「地球滅亡の危機」

「ザ・スター」“The Star” H・G・ウェルズ=著、橋本槇矩=訳

『タイム・マシン』(岩波文庫)所収

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

 


 音も光も存在を許されず、ただただ暗闇のみが無限大の広がりを見せているかに思われる太陽系外部の空間から、遊星が出現する。暗闇のなかで突如として輪郭を明らかにしたそれは、太陽系最外郭の惑星である海王星に衝突することで、地球に生きる人類の心配をよそに、さらなる巨大なフォルムづくりに専念し、いまや膨大なエネルギーを湛えた巨星となって、地球へ向けてまばゆい白熱の光を投げかけている。巨星は、地球上から肉眼でも確認できるほどの大きさで、夜空に点在する星々より、青白い光を発する月より、その凶暴な輝きを増していき、次第に地球の夜を白く澄んだ光によって照らしはじめるのだが、のみならず地球は巨星の接近につれて気温の上昇や異常気象、地震津波、洪水、火山活動の活性化などの大災害に見舞われ、滅亡をまぢかにするのだった――

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 と、こんなふうにあらすじを書いてみても、ここから読み取ることのできる小惑星や彗星の落下による地球滅亡という状況にたいして、いまではなにひとつ珍しさを感じられない。「アルマゲドンマイケル・ベイ=監督)や「ディープ・インパクト(ミミ・レダー=監督)など、この種の題材を映像化した作品はディザスター映画などと呼ばれ――映画としてすばらしいかどうか、ここではひとまず保留にするが――、量産された、そしてこれからもつくられつづけるであろう、それらが「地球滅亡の危機」という主題のSFを浸透させているからだ、というのがその理由としてもっともらしく思えたりする。しかし、それは同時に拡散としても作用しており、主題は形骸化され、ある形式のみが無批判に継承されているのではないか。
 たとえば、それはこんな感じである。地球と衝突する軌道にある圧倒的な質量をそなえた小惑星の存在にどこかの観測機関が気づくことで、小惑星が凄まじい速度で地球との距離を抹殺していく、その限られた時間を皆が意識する事態に至り、たいていの場合、大勢のなかでも特定の人物、つまりは主人公と呼ばれる者とその周辺に配置された人物の物語のみが選び取られ、そのかれらはというと絶望のなかで摩耗しながらも、決まってどこか充実した生に満足するのである。たとえば、英雄的な自己犠牲、あるいは家族愛といったものが用意された結末。ヒューマニズムという甘美な世界に引きこもり、その心地よい微睡みのなかで人間を礼賛するのだ。
 一方で「ザ・スター」は、ウェルズらしく宇宙的悲観主義である。

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「ザ・スター」には、そもそも感情移入の対象となるような人物は登場せず、ウェルズがペシミスティックに地球の「状況」を描きだすために、主役に据えたものは――それをあえていうとすれば――顔のないひとたちの集合としての「人類」だ。

 ロンドンに夜明けが来て、双子座の一等星も沈み、星は輝きを失った。冬の夜明けは、どんよりと滲みこむような明るさからはじまる。起きて一日の仕事にとりかかろうとしている家々の窓にガス灯とロウソクの明りが黄色く映えている。しかし欠伸をした警官は夜明けの空にその新星を見た! 市場で働く人々も茫然として空を見上げている。早めに仕事場にむかう労働者、牛乳屋、新聞を運ぶ荷馬車屋、憔悴し切って朝帰りする顔色の悪い放蕩者、浮浪者、パトロール中の巡査たちも空を見上げている。田舎ではとぼとぼと野良にむかう者たちや、こっそり逃げ帰ろうとしている密猟者たちも見た。海では当直の船乗りたちも見た。忽然と西の空に現れた白い巨星を!

 ふいに空を見あげる警官からはじまり、放蕩者や浮浪者に至るまで、さまざまな人びとが並置され、巨星に目を奪われたロンドンの群衆の「状況」が立ち現われるだけにとどまらず、視点はあっさりとロンドンを離れ、田舎へ、海へ、さらにヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、アジアなどの世界各地の群衆を視界におさめていき、「人類」は冷徹に観察されている。
 そして、宇宙や自然の猛威に対置された人類は、徹底的に存在の無力さを痛感させられることになる。白熱の空はその光と熱風で人びとの身をじりじりと焼くのであるが、そうなると当然ながら世界中の氷という氷が融解する事態となり、河川や海の水位は上昇し、その濁流や打ち寄せる万丈の波濤のなかにゴミのように屍体が漂うのだ。雹が降り、地震によって地面が割れ、海上では蒸気が渦巻き、火山が溶岩をこぼしながら灰や塵を吐きだしている風景をまえに思いだされるのは、「ザ・スター」にあっては珍しく、匿名ではあるが幾分か個人としての輪郭を与えられた、ある大数学者のせりふである。

「(前略)諸君! 手短かに言うならば、人類の歴史は空しい歴史であった」(大数学者)

 人類は、世界が――といっても、それは人類にとっての世界にすぎないが――滅亡へとひた走るその風景を眺めることしかできない。宇宙的な視点から見た人類は、ましてや個人の意志などというものは、非常にちっぽけなものでしかないのである。『宇宙戦争』でも、ウェルズは地球を火星人のトライポッドに襲撃させるが、人類の武器も戦略もそれにたいしては有効的な手立てにはなり得ず、終いに火星人たちは人類のまったく関知しないところで死んでしまうのだが、その後の復興によって、蒙った傷が思いもよらないかたちで人類に寄与したことが明らかになるのだ。

広大な宇宙の、より深遠な意図からすれば、火星人の侵入は、地球人にとって、究極的には利益であったといえぬこともない。それはわれわれから、廃頽のもっとも有力な原因である将来への安心感をとりのぞいてくれた。人類の科学にそれがもたらした贈り物は、非常に大きなものがあり、それはまた、我々に人類共通の福祉思想を、いちじるしく増進させてくれた。

(『宇宙戦争』宇野利泰=訳)

「ザ・スター」の巨星も、人類の科学技術によって破壊されることもなければ、ついにはそれが地球に衝突して人類が滅びてしまうということもない。人類は、宇宙の気まぐれのなかでゆらぐ一隻の難破船のような存在で、災禍に遭ったかと思えば、でも、ふと顔をあげると新しい風景――「新たな同胞愛」や「北極と南極の温暖なところ」などの新天地――が広がっていることすらあり、『宇宙戦争』的な「広大な宇宙の、より深遠な意図」を、人類は結果的に知り得るに過ぎない、あるいは知ることすらかなわないかもしれない、「状況」の住人なのだ。

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 結末で、この物語の語り手は火星人の天文学者であることが唐突に明かされる。その火星人の天文学者は総括としてこう述べる。

「われわれの太陽系を横切っていったあの流星の大きさと温度を考えてみると、あれほど接近した地球にほとんど被害がなかったのは驚くべきことだ。五大陸と海の変化は見えないし、唯一の変化といえば両極の氷らしき白いものが小さくなったというくらいだ」(火星人の天文学者

 そこに「人類」の二文字は存在しない。それはやはり「数百万マイルの宇宙のかなたから観察すれば、人類はじまって以来の大災害もいかに微細なものであるか」を物語ると同時に、人類の卑小さを言外に語っている。