Opus 7

essays about moving pictures (or books)

時代を越える『タイム・マシン』

タイム・マシン』“The Time Machine” H・G・ウェルズ=著、橋本槇矩=訳

タイム・マシン』(岩波文庫)所収

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

 


 時間旅行、あるいはタイムトラベル――果たして、このことばを知らない者がいるであろうか。
 タイムトラベルは、これまでそれを扱った作品が小説や映画、漫画など多くの媒体で量産されていることを、あれこれと具体的な例をだして示すまでもなく、現在ではフィクションにおいて当然の概念であるし、ちょっとでもSFを齧ったことがある者からすれば、それを浸透させたのがほかならぬH・G・ウェルズSF小説タイム・マシン』であり、多くのタイムトラベルものの本流にこれが存在することについても言をまたないだろう。
 しかし、ここで――なにをいまさらといわれることを覚悟しつつ――小説『タイム・マシン』とはなにだったのか、私なりの整理を試みたい。

   *

 まず――これは『タイム・マシン』に限らなくともよいのだが――タイムトラベルとは、なぜこうも我々を魅了してやまないのか。
 もちろん、それは凡庸な思考から真っ先に導きだされる類のものであるのだが、過去へ遡り未来へ飛翔することには、計り知れないほどの利点があり、そこにロマンを見いだせるからにちがいなく、『タイム・マシン』でも、そうしたタイムトラベルについての凡庸な可能性はいくつか列挙されており、やはり凡庸な欲望に忠実である我々はどうしたってそれに興味を惹きつけられるのである。

「歴史家にはずいぶん便利なものだろうな。過去に戻って、ヘイスチングの戦いの実際を確かめることができるんだから」と心理学者が言った。

ホメロスプラトンの口からじかにギリシア語を聞けるかもしれませんよ」と若い男が思いついたように言った。

 過去へタイムトラベルすれば、歴史の転換点に立ち会えるだろうし、史書や歴史文学内の存在だった人物を目のあたりにすることだってできるだろう。傍観者でいるだけにとどまらず、時の奔流を一方向に流される存在であることをやめた人間は、歴史を改変し、人生を仕切り直すことさえできるかもしれない。あのとき、こうしていれば……あの選択さえしてなければ、いまは……という“もし”の二文字にたいする強烈な憧憬を抱える人間は、過去を渇望せずにはいられない。

「よし、それなら未来へ行くのがいい」と若い男が言った。「ありったけの金銭を投資して利殖する。そして未来へ行って、たんまりいただくんだ!」
「しかし完全な共産主義社会になっていたら皮肉なことだね」

 未来へのタイムトラベルも、過去へ遡行するのと同じくらい蠱惑的だ。それは「知りたい」という欲望と直結しているようで、遠い未来世界の風景や文明にも知的好奇心をくすぐられるし(もちろん先述の引用にあるように、自分にとって都合が悪い可能性も充分あるわけだが)、比較的近い未来のことを知りたいとも思う。過去にしろ未来にしろ、タイムトラベルは人間の現世利益的な欲望と深く結びついていて、ひとはその可能性に夢を見るのである。
 それだけではない。タイムトラベルによるドラマ云々以前に、そもそもタイムトラベルは可能なのか、という思考実験的な側面も魅力のひとつだ。
 たとえばタイムトラベルを説明するときに度々言及されるほど有名な「親殺しのパラドックス」であるが、これは過去にタイムトラベルし自分の親を殺そうとしたとき、もし時間線というものにちからを加えられても元に戻ろうとする、どこかバネにも似た弾性的な性質があるのならば、絶対に親を殺すことはできないだろうが、でも仮に、殺すことができたならどうなってしまうだろうという問いである。自分が誕生する以前の過去で親が死んだとなると、当然自分が生まれることはないわけで、しかし、それが事実だとした途端に、いったい誰がタイムトラベルして親を殺したというのか、というこれまた当然の疑問が生じるので、やはり親は殺されずに自分が生まれることが強く要請されるのだが、自分が生まれれば親を殺してしまうので……といった具合に、因果は奇妙な円環をさまよって、泥沼に嵌ってゆく。これがいわゆる「タイムパラドックス」である。そして、この時間のねじれを解きほぐすための「多世界解釈」の概念が登場したりして、時間SFは目も眩むようなアイデアにあふれている。

   *

 ――と、ここで『タイム・マシン』に話を戻して、H・G・ウェルズの『タイム・マシン』が、いまもなおSF史のなかで燦然と輝くのはなぜだろう。
 これによって、ここまでに述べたような魅力あるタイムトラベルという概念が人口に膾炙したからか? そのアイデアの可能性がウェルズ以後の作家によって無限大の広がりを見せるに至ったからか? もちろん、それらも理由のひとつに数えてもさしつかえないし、全面的に同意もするのだが、私には『タイム・マシン』がウェルズの時代に書かれたというのは本当であろうかと感動せずにはいられず、すなわち、この小説が偉大なのは、SFというジャンルの未来を見てきたかのような、まるでそれ自体がタイムトラベルをして現在まで存在しているかのような佇まいであるからではないか、と思うのである。
 事実、ウェルズはSF創成期の人間であるというのに、まるで未来の、SFという文学ジャンルの推移を覗いてきたかのように、『タイム・マシン』を書きあげている。先人ジュール・ヴェルヌの科学技術を礼賛する態度と袂を分かち、のちのヒューゴー・ガーンズバックが創作したSFにも欠けていた、近代科学/理性を自己批判する精神を――SFの本質のひとつ、というべきものを――ウェルズはすでに獲得しているし、そのうえ『タイム・マシン』における「科学」は、自然科学だけでなく社会科学を採りいれた二重の科学なのである。
 そもそも「SFとはなにか」ということに関して(これについては、とてもここでは書き切れないほどの長いながい論争があるのだが)少なからず付記する必要があるかもしれないので、笠井潔氏による「SF」の定義を引用すると――

 科学が「支配的修辞」となった時代を、ためらいなく蒙りきろうとする文学的決意がSFを生んだ。だからSFは、いつだって科学の自己宣伝を文字通り愚直に信じ込みうる態度を前提的に欠いていたのである。レトリックを「うまく」使おうとする職人的感覚が、科学にたいする距離をおいた態度が、いわば「他人の関係」の自覚がSFをSFたらしめている。科学にたいして他人の、つまり対象的で冷淡な態度(その根拠は、作家が「夢見る」――SFの「F」の部分を失いえない存在であることに由来する)をとるにもかかわらず、それを無視しては夢に不可欠の現実性(現実的でない夢なぞ夢の名に価しない)を獲得しえないという客観的な認識こそが、このアンビバレンツな、両義的な、矛盾した態度こそが、SFの本質を深い地点で決定している。 

(『機械じかけの夢』)

 ――「SF」とは、かつての権威である聖書の引用に代わって、科学を文学的な修辞として採用することで「不可能な、奇想天外な、人のドギモを抜くような話を、いかにももっともらしい説明によって信じさせ」る文学ジャンルであり、SFの〈S=科学〉はあくまでも、作家が〈F=夢〉を構築するための「修辞としての科学」であるがゆえに、科学技術の進歩を内在的に肯定する科学小説とはまたちがう、かといって外在的に糾弾するわけでもない、その内と外の紙一重の狭間をSFは生きている。
 アイザック・アシモフの「SF発展三段階説」によれば、SFは「冒険主流」「科学技術主流」「社会科学主流」(これに、ニューウェーブ以後をつけくわえるならば「人間科学主流」)と推移してきたのだが、これを笠井の「SF」の定義で読み直してみるならば、ヴェルヌやガーンズバックに代表される「冒険主流」は、〈S=自然科学〉によって、近い未来限りなく実現可能なテクノロジーを描いており、そのために〈S〉は〈F〉を構築するための修辞になり得ておらず、〈F〉は〈S〉とは別の冒険的要素が支えていたともいえるし、〈S〉を啓蒙するための単なるパッケージであったともいえる。そこから推移してキャンベル革命後のSFは、「科学技術主流」時代に〈S=自然科学〉によって〈F〉を巧みに形容しはじめ、「社会科学主流」時代には〈S〉が自然科学から社会科学への二重化を志向し〈S=自然科学+社会科学〉となったのである。
 ウェルズの『タイム・マシン』が出版されたのが一八九五年、SFが「社会科学主流」となるのが一九五〇年代以降だから、『タイム・マシン』が五十年ほど過去に遡って、いままで存在しているように思えても当然ではないか。

   *

タイム・マシン』における、自然科学的知見に基づいた「修辞としての科学」のまずそのひとつは、タイム・マシンの発明という「夢」に現実味をもたせるために「時間=四次元」だと説明し、科学的合理性の根拠とした点である。

「実は、ぼくはしばらくこの四次元の幾何学に取りくんできた。その結果いくつかの面白いことに気づいたんだ。たとえば、ここにある人の肖像画があるとする。ひとつは八歳のときの、もうひとつは十五歳のときの、さらに十七歳、二十三歳のときの、という具合にいくつもの肖像画があるとすると、これらはすべてその人の断面図であり、いわば固定して不変の四次元的存在の三次元的表現だといえるだろう。科学者たちは……」

 もちろん幾何学という学問の範疇にあって、三次元よりもひとつ上位にある次元とは時間軸のことではないのだが、しかし、こう説明してしまえば、一次元が二次元の、二次元が三次元のある方向からの投影であるように、「ある一瞬」の三次元とは「時間の流れ」から切り取られたものなのだとして、読者は四次元の存在を直感できるだろう。最終的には、三次元空間を「重力に逆らうことができる気球」が上下に移動することができるのだから、「揺り籠から墓場まで同じ速度で動いている」時間の流れのなかを自由に飛びまわるのという芸当も科学技術によって可能かもしれない、ならば……と、タイム・マシンを受けいれることになる。
 そして、もうひとつの自然科学的知見は、ダーウィンの進化論であるが、これが『タイム・マシン』にとって――あるいは、ウェルズの思想にとっても――もっとも重要で、それはタイム・トラベラー渡航する八十万年後の世界、そこに生きる人類の進化あるいは退化を予測するだけでなく、社会のありようにも深く関わっているからだ。
 未来の人類であるエロイ族は、陶器のように繊細で美しく、かれらの生活パターンはといえば、可憐な花や灌木であふれた庭園で朝から晩まで遊び、ふわふわと曖昧な恋愛をし、食べては寝てをくりかえすのみで、その世界は、まるで絵に描いたような楽園である。

八十万年後の世界では、空中に蚊もいず、地上には雑草も茸もない。いたるところに果物が実り、甘美な花が咲き誇り、色鮮やかな蝶があちこち舞っている。理想的予防薬が発明され、病気は根絶されてしまった。未来世界で、ぼくは伝染病にお目にかからなかった。後で詳しく話すことになると思うが、腐敗という現象さえなくなっていたのだから。
 社会生活も完全に改善され、理想的な住居、素晴らしい服装、労働からの解放は当然のこととされている。社会的闘争も経済的闘争もない。現在のわれわれの生活を成り立たせている商店、広告、交通、その他の経済的流通制度は消滅してしまった。人口抑制も成功し、人口は増加しない。この未来世界はいったい天国なのだろうか、夕陽をみつめて、ぼくは考えた。

 そこは科学が自然を完全に隷属化した未来、完璧な福祉が保障される社会が実現した果ての未来であるのだが、苛烈な環境に適応するために進化し、現在あるような資質や能力を獲得してきた人間は、人間にとっての安息の地に作り変えられた環境を前にして、そして自律的にひとを生かしてくれる完成された社会のシステムを前にして、果たしてそのままでいられるだろうか。あらゆるリスクが淘汰され、生存闘争の必要がなくなった未来の人類に、「知的なものにしろ肉体的なものにしろ、力」は、そもそも必要なくなるのではないか。
タイム・マシン』の八十万年後の世界では、知性も、性向や欲望も、嫉妬や愛情などの激しい感情も、複雑な言語も、芸術やエロティシズムさえも、すべてが洗練された末に、もはや不要なものとしてヒトから失われて久しく、文明の進歩に相反して、ヒトは従来「生」を感じていたはずのものから遠ざかり、「退化」をはじめている。それはエロイ族の身体的特徴からも明らかであり、「温和な髯のない互いに似た顔だち」で、男女の別なく脆弱な「少女のようにふっくらとした身体つき」が意味するものとは、とりもなおさずなにものにも侵されることなく存在する唯一のユートピア、母性による保護が徹底された生命の故郷、つまりは「子宮」への逆流なのだ。
 その一方で、エロイ族とは真逆へ形質を変化させた人類も登場し、モーロック族と呼ばれるその地下を棲み処するもうひとつの人類は、エロイ族を生かす社会システムの一部として存在していた者たちだ。ブラックボックス化されたシステムの修復と単純な操作をただ反復していたに過ぎないのだろう、モーロック族もエロイ族と同様に知性を失っており、地上の楽園を成立させるために、汚く、息苦しい、地下工場の暗闇に潜ったかれらの容姿は現在のヒトからはほど遠く、夜行性動物のそれのように大きな「眼はグレイをおびた赤い色」で「全身は濁った白色」の「きつね猿のような」生物である。
 ウェルズが生きた当時のイギリスは、近代市民社会という名の階級社会であり、それにたいするかれの社会観は進化論と分かちがたく結びつき、ブルジョワジープロレタリアートの終着点としてエロイ族とモーロック族が克明に描きだされているのである(それにしても、エロイ族がモーロック族にとっての獲物、搾取の対象になっているというのは、なんとも皮肉な反転だろうか)
 さらに十九世紀後半、進化論はエントロピー理論と相重なって世紀末的風潮を加速させたのだが、その影響下で、ウェルズは宇宙的悲観主義と呼ばれる終末思想の形成する。『タイム・マシン』で描写されている八十万年後よりさらに未来の世界は、まさに終末的な風景で――

 そのときの荒涼とした光景をきみらにわかってもらうのはむずかしい。赤い東の空、真暗な北の空、塩の死海、蟹の怪物がうろつく石だらけの浜辺、毒々しい苔が一面に拡がる岩、稀薄な空気、こういったものはすべて寒々とした印象を与える。百年ほど飛行してみたが結果は同じであった。どんよりとした赤い太陽が少し大きく見えたが、相かわらず海は死んだように横たわり、空気は冷たく、緑色の苔と赤い岩の間を例の蟹どもが徘徊していた。そして西方の空には巨大な新月らしきものが青白い弧を描いていた。

 ――その頽廃的な風景をまえにタイム・トラベラーは、人類の無力さを嘆くこともなく、静かに、ただ冷静に、それを眺めるのみである。
 進化論によって、「進化」とは必ずしも「進歩」を意味しなくなり、偶然的な変異と自然選択の集積がいまの人類を形作っているのだという事実が露呈したと同時に、神による導きも寵愛も消滅し、かくして現段階では地球において支配的な立場にある人類の永遠は潰えた。エロイ族やモーロック族がいた未来は神なきあとの人類の黄昏であり、ついに人類が消え失せた薄明の世界では〈蟹〉や〈蛸〉といった生物が、まるで地球上でのおおまかな進化の流れに逆行するように猖獗を極めているのであるが、しかし、エントロピー理論によれば、孤立系であるこの宇宙はエントロピーの増大によって熱的平衡状態へと向かっているのだから、人類が繁栄しようが衰退しようが、そのいかんに因らず、いずれ生命も星もないのっぺりとした暗黒に還元されるのだ。
 だから、タイム・トラベラーはただ眺めている。深遠な宇宙と気まぐれな自然にたいして人類はあまりに無力でちっぽけで、そのちっぽけな人類の滅亡はどうも避けられそうにない。それがウェルズの悲観なのだが、ここで忘れてはならないのは、人類にも対処できる問題が少なからず存在するということであり、エロイ族とモーロック族が誕生する未来は、紛れもなく変えることができるものとして提示されている。
 極めてうしろ向きな姿勢でありつつ、それでも希望を捨てないこと。
 ウェルズは『宇宙戦争』のなかで「将来への安心感」こそが人類の「廃頽のもっとも有力な原因」だと断言してみせるが、『タイム・マシン』では実際に悲観的な未来を読者に突きつけてみせることで、希望を託そうとしているのである。