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「タイム・マシン」 H・G・ウェルズ=著

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タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

 
COLUMN

時代を越える「タイム・マシン」

 時間旅行/タイム・トラベル――
 このことばを知らない人がいるだろうか。
「タイム・トラベル」を世に広く浸透させたのは、他ならぬH・G・ウェルズの「タイム・マシン」である。タイム・トラベルを扱った作品は、小説/映画/漫画/アニメなどで数多く量産されてきたが、それらの原点にこの「タイム・マシン」が存在することは言をまたない。
 過去や未来へと旅することには、計り知れないほどの利点があり、利益があり、ロマンがあるのだ。

「歴史家にはずいぶん便利なものだろうな。過去に戻って、ヘイスチングの戦いの実際を確かめることができるんだから」と心理学者が言った。

ホメロスプラトンの口からじかにギリシア語を聞けるかもしれませんよ」と若い男が思いついたように言った。

 過去へ行けば、歴史のターニング・ポイントに立ち会うことができる。歴史上の人物に出会うことができる。さらには歴史を改変したり、自分の失敗をやり直すことができる。
 ――あのときに戻りたい/あのとき、あんなことをしなければ。
 誰もが過去を振り返り、思いを馳せる。

「よし、それなら未来へ行くのがいい」と若い男が言った。「ありったけの金銭を投資して利殖する。そして未来へ行って、たんまりいただくんだ!」
「しかし完全な共産主義社会になっていたら皮肉なことだね」

 未来に行くことが可能であるということは、現在に生きる人間が当然知り得ない情報を手に入れることができるということだ。
 宝くじの当選番号も、競馬のレース結果も、恋の行方も……。
 時間の経過によって開示される情報の恩恵――それを蒙りたい、と誰もが一度は考える。
 タイム・トラベルは人間の現世利益的な欲望と結びつきやすい。
 それだけではない。「タイム・トラベルは可能なのか?」という科学的な問いも魅力のひとつだ。相対性理論以降のさまざまな物理学的仮説、「親殺しのパラドックス」に代表される思考実験やそれを防ぐための答えのひとつとしての「多世界解釈」など、読者の科学的欲望をも満たしてくれる。
 しかし、「タイム・マシン」がいまもなおSF史のなかで大きな意味をもつそのわけは、タイム・トラベルというアイデアが人間の欲望に直結し、そのアイデアの可能性がウェルズ以後の作家によって無限大の広がりを見せているからだ、とそれですましてしまっていいだろうか。
 もちろん、それも理由のひとつとしてカウントしてさしつかえない。
 しかし――ウェルズの初期作品である「タイム・マシン」が、ジュール・ヴェルヌからガーンズバックに連なるSFには欠けている近代科学/理性への自己批判的なスタンスを、SFの本質というべきものをすでに獲得していることこそが重要なのではないだろうか。
 笠井潔はSFの王道を「支配的修辞としての科学」に求め、次のように語る。

 科学が「支配的修辞」となった時代を、ためらいなく蒙りきろうとする文学的決意がSFを生んだ。だからSFは、いつだって科学の自己宣伝を文字通り愚直に信じ込みうる態度を前提的に欠いていたのである。レトリックを「うまく」使おうとする職人的感覚が、科学にたいする距離をおいた態度が、いわば「他人の関係」の自覚がSFをSFたらしめている。科学にたいして他人の、つまり対象的で冷淡な態度(その根拠は、作家が「夢見る」――SFの「F」の部分を失いえない存在であることに由来する)をとるにもかかわらず、それを無視しては夢に不可欠の現実性(現実的でない夢なぞ夢の名に価しない)を獲得しえないという客観的な認識こそが、このアンビバレンツな、両義的な、矛盾した態度こそが、SFの本質を深い地点で決定している。 

『機械じかけの夢』

 この、SFの「S=科学」に対するアンビバレントな態度――聖書を引用するよりも科学を参照し、それを文学的な修辞(科学的に厳密であるかは関係しない、読者に現実的にあり得そうだと感じさせることができる文体上のテクニック)として採用しておきながら、あくまでも「修辞としての科学」であるために近代科学を鵜呑みにしない批判的な態度が、「タイム・マシン」では見てとれる。
 ヴェルヌ、そしてガーンズバック以降のSFの「S=科学」とは、すなわち自然科学による技術的進歩であり、それを楽天的に信仰していたが、「S」はキャンベル以後には社会科学を、ニューウェーブ以後には人間科学を内包していった。
 人間と社会、そして科学。
 SFの歴史――それは近代科学を完全に擁護することも糾弾することもなく、その三者のあるべきかたちを模索する遍歴の旅だ。
 しかし、ウェルズはそのSFの「S」の遍歴の初期において、はやくも社会科学をとりこんでいた。そして、当時イギリスの近代市民社会という名の階級社会に警鐘を鳴らしていた。
 それこそが、「タイム・マシン」である――流れを先取りしたこの作品そのものが、時代を越えて/タイム・トラベルをして、存在しているように思えても当然ではないだろうか。

タイム・トラベル、あるいは哲学的思索の道

 時間=四次元。
 当時の自然科学上の知見アインシュタイン特殊相対性理論に基づいて、ウェルズがタイム・マシンの発明という「不可能」をいかにもそれらしいロジックで説明し、科学的合理性の根拠とした「修辞としての科学」がこれだった。

「実は、ぼくはしばらくこの四次元の幾何学に取りくんできた。その結果いくつかの面白いことに気づいたんだ。たとえば、ここにある人の肖像画があるとする。ひとつは八歳のときの、もうひとつは十五歳のときの、さらに十七歳、二十三歳のときの、という具合にいくつもの肖像画があるとすると、これらはすべてその人の断面図であり、いわば固定して不変の四次元的存在の三次元的表現だといえるだろう。科学者たちは……」

 幾何学において三次元よりもひとつ上位にある次元とは時間軸ではない。しかし、このように説明すれば、一次元が二次元の、二次元が三次元のある方向からの投影であるように、「ある一瞬(三次元)」とは「時間の流れ(四次元)」から切りとられたものなのだ、として読者は四次元の存在をもっともらしく理解する。
 ――ぼくたちは三次元空間を「重力に逆らうことができる気球」によって自由に移動することができるが、タイム・マシンがあれば「揺り籠から墓場まで同じ速度で動いている」時間の流れに逆らうことができるのだ、と。
「タイム・マシン」において、「時間軸としての四次元」は自然科学からの発想であり、物語に必要となる「タイム・トラベル」の礎を用意する。そして、タイム・トラベラーによって語られる、八十万年後の未来の社会像はウェルズの社会観(社会科学)に直結し、さらに三千万年後の世界はかれの終末思想(哲学)と結びつく。
 自然科学―社会科学―哲学は三重化され、物語の構造と一致するのである。

 八十万年後の世界では、空中に蚊もいず、地上には雑草も茸もない。いたるところに果物が実り、甘美な花が咲き誇り、色鮮やかな蝶があちこち舞っている。理想的予防薬が発明され、病気は根絶されてしまった。未来世界で、ぼくは伝染病にお目にかからなかった。後で詳しく話すことになると思うが、腐敗という現象さえなくなっていたのだから。
 社会生活も完全に改善され、理想的な住居、素晴らしい服装、労働からの解放は当然のこととされている。社会的闘争も経済的闘争もない。現在のわれわれの生活を成り立たせている商店、広告、交通、その他の経済的流通制度は消滅してしまった。人口抑制も成功し、人口は増加しない。この未来世界はいったい天国なのだろうか、夕陽をみつめて、ぼくは考えた。

 タイム・トラベラーはタイム・マシンで八十万年後の世界へ渡航する。この部分だけに限定すれば、そこはまさに楽園だった。その地上の楽園で未来の人類――エロイ族は朝から晩まで遊び、ふわふわと曖昧な恋愛をし、食べては寝てをくりかえしている。
 科学が自然を完全に征服/隷属化した未来。
 完璧な福祉が保障される社会が実現した未来。
 完全で完璧なバランスの上に成り立つ世界に危険はない。あらゆる生存競争の必要はない。
 しかし――、
 しかし、「知的なものにしろ肉体的なものにしろ、力」の必要もない。
 知性も、性向や欲望も、嫉妬や愛情などの激しい感情も、複雑な言語も、芸術やエロティシズムさえも――すべてが洗練された末に、不要なもの/邪魔なものとしてヒトから失われていく。文明の進歩に反比例して、ヒトは従来「生」を感じていたものから遠ざかり、「退化」をはじめる。
 エロイ族の身体的特徴は「温和な髯のない互いに似た顔だち」で、男女の別なく脆弱な「少女のようにふっくらとした身体つき」だ。それは、なにものにも侵されることなく存在する唯一のユートピア、母性による保護が徹底された生命の故郷、つまり「子宮」への逆流を意味しているのである。
 その世界に存在する人類の末裔はエロイ族だけではない――地下を棲み処にするモーロック族、かれらの容姿はいまのヒトからはほど遠い。夜行性動物のそれのように大きな「眼はグレイをおびた赤い色」で、「全身は濁った白色」の「きつね猿のような」生物。かれらは楽園のような地上とは正反対の、汚く息苦しい地下工場の暗闇に適応していた。
 エロイ族とモーロック族は、一方がかつてのブルジョワジーで、他方がプロレタリアートなのだ。社会階級的差異の拡大とテクノロジーによる環境の変化は、人類をそのふたつの種族に「退化」させた。そして、モーロック族にとってエロイ族は獲物/搾取の対象であるという皮肉な逆転まで起きている。
 タイム・トラベラーは悲観する――

 ぼくはこの未来世界の惨状は、彼ら自らが招いた罰だと考えて自分を慰めた。人間は同胞を搾取し、必要性という言葉をスローガンに、安逸の生活を送ってきた。しかしやがてこの必要性という怪物に復讐されたのだ。

 ――近代社会を照らす「理性の光」とは、こうも人間や社会を堕落させもするものだったか。
 ここに、ウェルズの近代理性へのアンビバレントな意識の投影を見るのは難しくない。小野俊太郎は、「ウェルズに機械に対する嫌悪感はないが、機械化に対する嫌悪は存在する」と述べる。

この場合の機械化とは、メカニズムの原理はわからなくても、機能を修復してひたすら操作して奴隷のように働いているモーロック族そのものとつながっている。生産のための機械を担当し、機械的な労働をする役割が固定化したことによって、モーロック族が誕生したとする。彼らは博物館の中を歩き回っても、そこにある知を本で読んで理解して、別のアイデアを生み出すことはできない。
 そしてイーロイ族[エロイ族]もまた機械化している。産児制限少子化政策の結果少数となり、戦いがなくなったせいで、男女が似かよってきた。安逸が生み出したのはまずは「エロスと芸術」の方向であったが、それすらも忘れて、歌や踊りを機械的に反復するだけの生活になっている。タイムトラベラーは、自分が貢献している科学技術が結果として生み出す世界に戦慄を覚えているのだ。

『未来を覗くH・G・ウェルズ――ディストピアの現代はいつ始まったか』

「機械化」、つまり人間の「生」の一部がどんどん外部へと委託されていくことによって、テクノロジーはあらゆるものを代替していく。行きつくさきは、ヒトとして機能の単純化という意味での「人間の機械化」だ。それを忌避しつつ、人間と社会は「機械」に象徴される科学とともにあらねばならない――ウェルズは未来のテクノロジーの「進歩」を楽天的に語るのではなく、科学と社会を不可分のものとして八十万年後の世界の「退化」をペシミスティックに語ることで、近代市民社会を批判したのである。

 そして、タイム・トラベラーはさらに未来へ――

[巨大な赤い太陽は地平線上に静止し]赤い東の空、真暗な北の空、塩の死海、蟹の怪物がうろつく石だらけの浜辺、毒々しい苔が一面に拡がる岩、稀薄な空気、こういったものはすべて寒々とした印象を与える。百年ほど飛行してみたが結果は同じであった。どんよりとした赤い太陽が少し大きく見えたが、相かわらず海は死んだように横たわり、空気は冷たく、緑色の苔と赤い岩の間を例の蟹どもが徘徊していた。そして西方の空には巨大な新月らしきものが青白い弧を描いていた。

 現在から三千万年後の時空を越えたときには〈蟹〉も姿を消した。永遠の夜明け、その薄明りの世界では「いく本もの触手が垂れさがっ」た〈フットボール〉が蠢動していた……。
 ウェルズの終末思想を形成したのは、ダーウィンの進化論とエントロピー理論による世紀末の風潮だ。「進化」とは「進歩」ではなく自然による偶然的変異の集積であり、神に導かれてきたはずの人間はただの「生物」だった。ならば、確率的に人類は不可測な自然によって絶滅に追いやられるだろう。そしていずれにせよ、孤立系である宇宙はエントロピーの増大によって熱的平衡状態へと向かっており、生命も星もないのっぺりとした暗黒に還元されるのだ。人類の滅亡は避けられない宿命とされた。
 エロイとモーロックが誕生する未来――それは改変可能な未来。しかし、〈蟹〉や〈フットボール〉――地球上の進化を遡行するような生物――が猖獗を極める未来を前に、ひとは諦めざるを得ない。宏大な宇宙は連綿たる時間を湛えている。その大きすぎ気まぐれな自然に運命づけられた滅亡を、人類はおのれの無力さを嘆くこともなく静かに――ただ静かに眺めていることしかできないのだ。そのウェルズの諦観(宇宙的悲観主義)が、醜くも美しく、歪でありながら道理にかなった、頽廃的な終末の風景には息づいている。

 ――人間とは、この宏大な宇宙にあってどういう存在なのだろうか。
 ウェルズは、八十万年、そして三千万年という途方もない時間旅行――現世利益を求めるようなたった数十年、数百年、数千年の単位のものではない――によって、哲学的思索の道をたどったのだ。