『一九八四年』 ジョージ・オーウェル=著

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一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 
COLUMN

社会主義オーウェルの絶望

  ジョージ・オーウェル=著の作品は、反共産主義の小説だと思われることがある。『動物農場』では、ナポレオン豚による独裁の物語をロシア革命がたどった路の寓意と読みとり、『一九八四年』では、ポスターに描かれた〈ビッグ・ブラザー〉の黒い口髭の顔がスターリンのそれを連想させるからだろう。しかし、だからといってこれらの作品が共産主義社会主義を批判したものだとしてしまっては、オーウェルの意図した全体主義批判から外れてしまうし、もし社会主義=悪なのだという理解にいたっているのならば、それは社会主義の本質というものをまったくわかっていないと言わざるを得ない。
 たしかに歴史的観点からすれば、社会主義を掲げたソ連やそのソ連の影響下にあった国家などは結果として一党独裁全体主義の色が濃くなり、根幹にあったはずの「格差なき平等」の理念は希釈化していったかもしれない。しかし、社会主義という考えそのものは問題ではないのである。
 それは、ひとは誰しも平等で平和な社会を望んでいるものだから。
 社会主義とはひとがあたりまえにつかみ取ろうとする(そしてまた、未来永劫つかみ損ねることになる)理想であり、その国は大多数が夢見るユートピアなのだ。
『一九八四年』にこうある。

  記録に残らない先史時代はともかく、おそらくは新石器時代の末葉以来、この世界には三種類の人々が存在してきた。即ち上層、中間層、下層である。これらのグループは、さらなる下位区分に分割され、それは無数の異なる名称を持ち、その相対的な数や、グループ間の相互関係は、時代によって変化してきた。だが、社会のこの本質的な構造は決して変わらなかった。途轍もない変動や、取り返しがつかないと見える変化の後でさえ、このパターンは常に現われるのだ。それはまさに、一方向に如何に強く押されても、必ず平衡を取り戻すジャイロスコープのようだ。
~(中略)~この三つのグループそれぞれの目的は、互いにまったく相容れない。上層の目的は現状を維持することである。中間層の目的は上層と入れ替わること。下層の目的は、もし彼らが目的を持っていたとしての話だが――というのも、彼らは単調な労働によって過度なまでに虐げられているので、日常生活以外の事柄はごくまれにしか意識できないというのが、昔から変わらぬ特性であるからだが――あらゆる差別を撤廃し、万人が平等である社会を創り出すことである。

  社会にこの三つの階層が存在する構造が存在する限りにおいて、大多数の人びとが属する下層が平等な社会を望み、中間層がその望みを実現させる方向のマニフェストを掲げ、下層の支持を得た中間層が新たな上層へとシフトする、この革命の仕組みは変わらない。階級格差が消滅することはない。近代ヒューマニズムですら、古代から連綿と続いてきたこの上下関係を含む価値体系を解体することなくついには風化し、いまだに格差は存在している。
 ここで問題となるのが、革命がなされた後の上層(もと中間層)の下層への裏切りである。オーウェルは常に労働者の立場に立った反体制的な社会主義者であったが(そう、オーウェル自身は社会主義者なのであり、反共的な作家であるとするのはまったくの見当違いなのだ)、かれが怒り、その怒りを原動力に血反吐を吐きながらも『一九八四年』を書きあげたのは、この「裏切り」ゆえだったのだ。『一九八四年』の解説でトマス・ピンチョンもそれについて触れている。 

オーウェルは)第二次世界大戦の始まるずっと以前から、(イギリスの)労働党員の大部分が、すでにとは言わぬまでも潜在的には、ファシストであると看做すようになっていた。労働党スターリン政権下の共産党との間に類似性が見出せることを多少とも意識していたのである。彼にとっては、どちらも労働者階級のために資本主義と闘う運動を装いながら、現実には、自己の権力の確立と永続化に腐心しているに過ぎなかった。大衆は、その理想主義、階級格差に対する怒り、そして低賃金をも厭わない労働意欲につけこまれ、ただ利用されるためだけに存在し、繰り返し何度も裏切られるのだ。

「『一九八四年』解説」

 革命、平和の実現、徐々にはじまる変質、裏切り、そしてもとの体制への回帰。
 夢に見たユートピア/楽園が地上に現れることはなく、変わったことと言えば、支配階級の顔だけ。
 それを簡潔に寓話として描いたのが『動物農場』だった。なにもこれはロシア革命の末路、共産主義国の末路の寓意としてだけあるのではなく、すべての革命について共通するような普遍性をもった、最大公約数的寓話なのである。
動物農場』ではまず、人間であるジョーンズさんが支配階級として存在している荘園農場で労働階級の立場にある動物たちが蜂起し、人間たちを農場から追放することからはじまる。農場の動物たちは「生まれ落ちると、かろうじて生きていけるだけの食べ物しか与えられず、最後の最後まで力をしぼりとられて働かされる――そして役に立たなくなったその瞬間に、あの恐ろしい虐殺が待ちかまえている」、そんな「悲惨な隷属の一生」からの脱却をはかるのだ。
 人間を排除した農場は「荘園農場」から「動物農場」へと名前を変え、そこに所属する動物たちは人間こそが飢えと過労の根元であり、唯一の敵であるとする動物主義(アニマリスム)の原理を打ち立てる。それは七誡として大納屋の壁に大きく記され、これに則った動物の動物による動物のための平等で平和な社会が実現するはずであった。

  七 誡
1 二本足で歩くもの、すべて敵なり
2 四本足で歩くものまたは羽あるもの、すべて仲間なり
3 動物たるもの、衣服をつけるなかれ
4 動物たるもの、ベッドで眠るなかれ
5 動物たるもの、酒を飲むなかれ
6 動物たるもの、他の動物を殺すなかれ
7 すべての動物は平等なり

動物農場』(開高健=訳)

 しかし、この七誡の文言は動物たちの新たな指導者となったナポレオンによって都合よくねじまげられていくことになる。牛から搾乳したミルクをこっそり盗んだことからはじまるナポレオン豚の独裁は、動物主義社会主義の希望を、七誡をひとつずつ破っていくことによる他の動物(労働者)の抑圧や殺戮、全体主義の誕生などの恐怖で曇らしていく。そして、七誡を読めばわかるだろうし、そもそも動物主義が人間の存在に対して否定的であるその性格上、これのすべてに背いた豚が行きつく先は人間である。結果的に、革命とは支配者が人間から豚に変わった、それだけのこと。革命の後に訪れるのは、夢に見たユートピアなどではなく、「私たちが目ざしていたのは、こんなことじゃなかったはず……」という無念さなのである。
動物農場』は童話であるということもあって、登場人物を動物によってキャラ化することで革命の要素を抽出している。権力を肥大化させていく独裁者を豚が、その親衛隊を犬が、労働者として馬や山羊が、もっとも下層の考えるということができないものたちを羊が、といった具合である。そのため、深刻さを感じさせないかもしれない。しかし、『一九八四年』の場合はかなり直接的であるために切迫感のあるものになっている。

アンチ・ユートピア『一九八四年』の普遍性

 産業革命以降の科学技術の発達は大量生産方式を可能にし、そこからはテクノロジーによる完全なコントロールが人々を労働という枷から解放するというユートピアが、また空想的社会主義のそれに対してマルクス科学的社会主義ユートピアなどが考え出されていった。それまではトマス・モアの『ユートピア』のようにどこかはるか海の彼方にあるはずの、しかし、決して手の届くことのない理想の国であったのが、それは科学技術の発達によって現在の状況から演繹的に導き出され得るものとなったのだ。
 しかし、世界が第一次大戦ロシア革命を体験して知ったのは、殺人を効率化する大量破壊兵器の進歩、そして、全体主義国家の台頭という「理想ユートピア」からは遠くかけ離れた「現実ディストピア」だった。
 いまだユートピアは見知らぬ海の水平線の彼方向こう。
 トマス・モアが名づけたその国家は「どこにもない国」の意であるが、「ユートピアの実現」はすでにそのことばのなかに解消できない矛盾を抱えているわけであり、実際的にも実現可能性の希望は裏切られたのである。
 より良い社会への期待から失望へ、というこの時代の気分をディストピア小説に投影してみせたのがオルダス・ハクスリージョージ・オーウェルだった。ハクスリーが『すばらしい新世界』で描き出したのは、ユートピアユートピアであるがゆえにディストピアと化してしまうという逆説であり、この最大多数の幸福増大を目指した、科学技術によるソフトな管理社会は現代的であると言える。一方で、オーウェルの『一九八四年』の直接的なディストピア、抑圧的でハードな支配による管理社会は現代的ではないと言われることがあるが、いまこれを読んでも本当に過去のディストピアへの郷愁でしか語ることはできないのであろうか。
 いや、そんなことはない。上で述べてきたように『動物農場』が革命後の社会における支配者の裏切りという普遍性を獲得しており、『一九八四年』がその延長線上に書かれたものであることを理解しているならば、そして、〈ビッグ・ブラザー〉という空虚な中心である支配者がなにを象徴しているのかを考えれば、それは明らかであるはずだ。
動物農場』の寓意とは、支配者が人間から豚に変わり、スローガンも都合によって書き換えられていく、という革命の負のループであったが、『一九八四年』ではそのループを省略した究極的なかたちの社会が提示されている。つまり、上層以外の人びとにとって、革命後にも飢えや貧困や圧政など生活に大きくかかわる諸問題が是正されることがないならば、「支配者」とはそのときどきの時代を象徴するだけのイコンに過ぎず、人びとは本質的に相変わらない「体制/システム」の支配下にあるわけだ。『一九八四年』の〈ビッグ・ブラザー〉はまさに不変である、堕落した支配者のイコン(ちゃんと読めば、彼が存在しないことはわかるだろう)として存在し、システムとしての党の支配は永続していく。〈ビッグ・ブラザー〉とその党というのは、現代のぼくらにも、そして未来永劫につきまとう問題たり得るのである。

1984年、オセアニアの悪夢的世界観

 オーウェルが想像した1984年の悪夢とは、超大国であるオセアニア(南、北、中央アメリカ+イギリス諸島+オーストラリア+アフリカ南部)、ユーラシア(ヨーロッパ+アジア北部)イースタシア(中国とその周辺地域+日本列島)によって世界地図が三色で塗りつぶされ、そのどれもが超全体主義国家である、という世界だった。三国は「永遠の戦争状態」にあるが、しかし、それはかつての絶対戦争や国家総力戦の様相を帯びない別の「限定的な目的」をもった戦争である。三国はその広大な領土ゆえに市場や資源など、物質的な意味において争いの原因があるわけでも、イデオロギーの相違が存在するわけでもない。では、その「目的」とはなにか。
 二十世紀初頭から、科学技術が人びとを肉体労働や不平等から解放するというユートピア的社会の実現可能性を恐れたのは支配階級であった。富が平等に分配されれば、支配者が特権的に権力を保持することは困難になる。大衆の生活水準が上がるということは、かれらが学び考えはじめるということであり、支配者の頽落と階級制度の破綻は論破されてしまうからだ。特権階級を維持するためには、大衆は貧困かつ無知でなければならず、しかし政府が作為的に産業を制限し、窮乏に陥らせていては政策が非難されるのは目に見えているので、物資は生産されつづけなければならない(そして、分配されてはならない)。そこで「大衆に過度な快適を与え、それによって、ゆくゆくは彼らに過度な知性を与えてしまいかねない物質を、粉々に破壊する、もしくは成層圏に送り込む、あるいは海の底に沈める為の一手段」という性格の戦争が生まれたのである。さらに、国家の外部に社会の敵をつくりだすことによる、その敵へ向けられる恐怖/憎悪/迫害/勝利感は、特権階級への狂信的なまでの崇拝という特殊な精神構造を整える。
 この戦争においては、勝つことも負けることと同じくらいに意味はない。交戦状態にあること、そのものが重要であるのだ。戦争の性格がそのように変わった世界で、全体主義である三つの超大国は互いに敵でありながら、国内の社会構造を保つための共犯関係にあると言える。
 オーウェルが描いた1984年では、まさにぼくらの格差がなくなることのない世界の過剰なメタファーであるかのように、世界構造のなかに「非自由と不平等を永続させる」意志が顕在化しているのである。
 そして、三国のなかで物語の舞台となるのは、〈ビッグ・ブラザー〉を指導者とする党の支配下にあるオセアニア(その一地域である〈第一エアストリップ〉の首都ロンドン)だ。外部の勢力――ユーラシアとイースタシアに征服される恐れも、人口の85%を占めるプロール(その名の通りプロレタリアート=下層階級)がその無知ゆえに反乱を企てる恐れもなく、党中枢(上層階級)にとって完全に統制すべき対象は、中間層たる党外郭の一般党員である。そのかれらというのは「有能で勤勉、ごく限られた範囲内であれば知性を働かせることさえ期待される」一方で、「また同時に、信じやすく、無知で狂信的でなければなら」ない存在。党による理性や感情の制御がこれを可能にすることで、上層と中間層を行き来するあの「お馴染みの振り子運動」は止まっているのである。
 党の思想はイギリス社会主義English Socialism)、通称〈イングソック〉と呼ばれるものであるが、党員はこの矛盾に満ちた思想を「自己防衛的愚鈍」とでも言うべき〈犯罪中止〉や、〈黒白〉(「黒は黒である」という事実を忘却し、「黒は白である」と信じることができる一方で、必要となれば「黒は黒である」ことを記憶のなかから喚び起こし、そしてまた忘れてしまうことができる能力)に代表される〈二重思考〉によって受容し、蓄積していく不満は〈二分間憎悪〉などの政策が国家の外部に向けて発散させる。
〈ニュースピーク〉という新語の発明、実のところ副次的な意味や概念の破壊を目的とした単語や文法の切り詰めは、ことばという存在が本質たる思考に先行するがゆえに、人間の思考の幅を狭めていく。
 ことばを扱った〈ニュースピーク〉が現代にも直結する問題を内包しているのはもちろんのことであり、巻末の付録「ニュースピークの諸原理」はかなり興味深いものであるが、ピンチョンが言うように特に〈二重思考〉は、『一九八四年』の「最も重要な功績のひとつ」だ。

〈二重思考〉はオセアニアを統治する各省の名称の背後でも作用している。平和省は戦争を遂行し、真理省は嘘を吐き、愛情省は党の脅威になりそうな人物を片っ端から拷問し殺していく。もしこれが馬鹿馬鹿しいほど異常に思われるなら、現在のアメリカ合衆国に目を向けて欲しい。戦争を造りだす装置が、“国防省”と呼ばれていることを疑問に思っている人はほとんどいない。同様に、司法省がその恐るべき直轄部門であるFBIを用いて、基本的人権を含む憲法の保障する権利を踏みにじっていることは、十分な証拠が書類として提出されているにもかかわらず、我々はその省を真顔で“正義の省”と呼んで平気でいる。表向きは自由とされている報道機関も、常に“バランスの取れた”報道をすることが求められ、あらゆる“真実”は、同等の価値を持つ正反対の情報によって即座に去勢される。世論は日々、修正された歴史、公式的な記憶喪失、明白な嘘を与えられているのだが、そうした情報操作はすべて好意的に“ひねった解釈(スピン)”などと呼ばれ、楽しげにスピンするメリーゴーランドと同様、何の危険もないと考えられている。我々は伝えられることが真実でないと知りながら、それが真実であって欲しいとも思っている。信じると同時に疑っているのだ。

「『1984年』解説」

〈二重思考〉とは、ぼくたちが普通に行っている逆説的な心理であり、矛盾しあうふたつ以上の意見を同時にもち、明白な態度を示さない政府というのは、『一九八四年』のような極端な恐怖支配型の管理社会のなかでなくとも、責任回避型の官僚社会、つまりぼくたちの世界において十分に見出すことができるものなのである。

人間性を問う物語

 このような世界で、物語の主人公であるウィンストン・スミスは、かれと同じく党に対して不満を抱くジュリアと恋に落ちる。その恋は、「画一の時代」の圧倒的な絶望の淵にあってはひとりの人間への愛情というものだけにとどまらない、人間の尊厳と自由を希求する欲望であり、党に対する政治的行為なのだ。事実、〈ビッグ・ブラザー〉以外の者に向けられる愛情や、一種の幸せを感じさせる性的興奮や快楽は、党にとって看過できない〈思考犯罪〉に他ならない。ウィンストンがジュリアとの恋愛、そして性行為を反政府運動として意識していることがよくうかがえるシーンがある。

「いいかい、君が相手にした男の数が多ければ多いほど、君への愛が深まるんだ。分かるかい?」
「ええ、とってもよく」
「純潔なぞ大嫌いだ。善良さなどまっぴら御免だ。どんな美徳もどこにも存在してほしくない。一人残らず骨の髄まで腐っててほしいんだ」
「それじゃ、わたしはあなたにぴったりね。骨の髄まで腐ってるもの」
「こうしたことをするのが好きなのか? ぼくを相手に、というだけじゃない。その行為自体が?」
「好きで好きでたまらないわ」

 昼夜を問わず起動しているテレスクリーンの監視の目。同僚/友人/肉親などの「親しき」密告者。〈思考警察〉が異分子を認識し抹消するための監視網をかいくぐりながら、ふたりは逢瀬を重ね、それはレジスタンス活動の入口へとつながっていく。

裏側には〈ビッグ・ブラザー〉の顔が刻印されている。硬貨からもその目が追いかけてくるのだ。硬貨にも、切手にも、本の表紙にも、旗にも、ポスターにも、煙草の箱にも――いたるところにその目はあった。いつ何時も目の監視が止むことはなく、声が耳にまとわりつく。眠っていても目覚めていても、仕事をしていても食事をしていても、室内にいても戸外にいても、風呂に入っていてもベッドで寝ていても――逃れるすべはなかった。頭蓋骨の内側に残されているほんの数立方センチメートル以外、自分のものと言えるものはない。

 しかし、その信じていた頭蓋のなかの聖域――ジュリアへの愛も、欲望も、〈ビッグ・ブラザー〉へ反発する意志も、ぼくたちが心や魂と呼ぶものまでも、党は侵す。〈思想警察〉に捕らえられたかれらは、〈愛情省〉の地下室の拷問と洗脳で、本心から仲間を売り、そして〈ビッグ・ブラザー〉を愛するようになるのである。
 殉職者となることすら許さない、このまったき絶望。
 オーウェルは、この絶望の地平から立ちあがる人間性とはなにか、と問う。

最上の書物とは、読者のすでに知っていることを教えてくれるものなのだ、と彼は悟った。

「最上の書物」がなくなるときは来るだろうか。