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『フランケンシュタイン――あるいは現代のプロメテウス』 メアリー・シェリー=著

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フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

 
COLUMN

プロメテウスの火

創造主よ、土塊からわたしを人のかたちにつくってくれと
頼んだことがあったか?
暗黒からわたしを起こしてくれと、
お願いしたことがあったか?

失楽園

フランケンシュタイン』の表紙をめくれば、そこにはまず『失楽園ジョン・ミルトン=著)からアダムの言葉が引用され、上のように記されている。著者メアリー・シェリーは『フランケンシュタイン』を創作するにあたって、『失楽園』の主題をプロットに組み込んだ。創造主である神は楽園からアダムを追放したが(楽園追放)、科学者であるヴィクター・フランケンシュタインは自らがつくりだした怪物の存在を拒絶し、創造主に見捨てられた被造物たる怪物は反逆者となるのである。
フランケンシュタイン』が『失楽園』と大きく異なるのは、創造主ヴィクターが科学によって生命創造を再現することだ。これには「あるいは現代のプロメテウス」という副題が係ってくる。
 ギリシア神話に登場するプロメテウスは、食糧問題が原因で争っているオリンポス神族の神々と人間(プロメテウスが人間を創造したとも言われる)の間をとりもつことになったタイタン神族(オリンポス神族より前の世代の神々)の子孫である。牛一頭を切り分けたプロメテウスは、肉と臓物を皮に詰めたものと旨そうな脂身を纏わせた骨のどちらかを選択するようにゼウスに進言する。ゼウスの選んだほうが神々へ貢物になり、そうでないほうが人間たちの取り分になるのだ。騙されたゼウスは見た目に美味しそうな骨を選び、これに激怒した結果、人間からあらゆるものを奪い取ってしまう。
 しかし、人間の行く末を案じたプロメテウスは天上界から「火」を盗み、人間にこれを与える。夜の暗闇の中で、地上に灯る火の光を見たゼウスはまたも激怒した。斯くして、プロメテウスはコーカサスの山の頂にはりつけとなり、来る日も来る日も鷹に肝臓を啄まれ、翌朝には再生する不死の肉体ゆえに、永遠の責め苦を味わう罰を負うことになったのである。
 この神話で語られた「プロメテウスの火」とは、科学技術や文明のメタファーだ。人類は火を保存するために原因と結果を関連づける時間的パターン認識を獲得し、文明を開化させるに至ったと言われる。暖をとり、自然の猛威から身を守るためだけではなく、「火」は確実に人間を進化させたのである。しかし、「火」が必ずしも恩恵ばかりを人間に与えるわけではない。映画「2001年宇宙の旅スタンリー・キューブリック=監督)に、「シマウマの大腿骨を使って世界初の殺人を犯したばかりのアウストラロピテクスがその骨を空中に歓喜に満ちてほうり投げ、それが、軌道を回る宇宙船になるという強烈なイメージ」(『人はなぜ殺すか/狩猟仮説と動物観の文明史』マット・カートミル=著)があるように、人間はその暴力性のために火=科学技術を争いごとや戦争にも利用する。「プロメテウスの火」はその運用方法によっては災厄をもたらすのだ。だから、プロメテウスは罰を受ける。
 このようにプロメテウスはオリンポス神ゼウスに反逆し、自らが創造した人間に「火」を授けた結果、その罪を背負うことになった。一方で、ヴィクター・フランケンシュタインもユダヤ=キリスト教の神の領域に踏み込み、生命創造の科学(=火)によって怪物を生みだしたことで、罰を受ける存在となる。ヴィクターはまさしく「現代のプロメテウス」なのである。
 物語は、ヴィクターが怪物創造によって動きはじめた自らの悲劇的な運命を告白し、それをウォルトンが記録したという体裁をとっている。ウォルトンというのは未踏の地である北極を目指し、磁力の秘密を探ろうとしている若き探検家。ヴィクターはかれに過去の自分の姿を見たのだ。そして、知を探究することの危険性を自分の体験を語ることで伝えようとする。
 このフランケンシュタインのメッセージを現代のぼくたちはどう考えるべきだろうか? 
フランケンシュタイン』が出版されたのが1818年、その127年後に広島に原爆が投下され、2011年3月11日には福島第一原発事故が発生した。「プロメテウスの火」はしばしば原子力技術の暗喩として使われるが、しかし、これらの事件を神の領域に踏み入ろうとした人間の越権行為を戒めるものなのだ、という安易な結論で終わらせてはいけないだろう。
 カントは人間の精神の働きを「純粋理性」「実践理性」「判断力」の三つに分け、第一~第三批判などで批判主義の立場を確立した。簡単に整理してみれば、純粋理性とは科学的な知を含む「そうなる他ない」という知性、実践理性とは「無条件にそうしなければならない」という定言命法の形式をとる道徳や倫理であり、判断力は日常生活における「好き/嫌い」「良し/悪し」の判断だと思ってもらえればいい。これらを踏まえて「プロメテウスの火」について考えると、それそのものに善と悪の二面性があるわけではなく、「プロメテウスの火」とは純粋理性に含まれる純粋な科学的知ではないだろうか。そして、実践理性から生じる道徳や倫理観を動機として、膨大な科学的知のライブラリーから判断力によって必要な知識を選びとり技術とする、これがあるべき科学技術の姿ではないだろうか。
 経験的欲望を動機として科学的知が運用されれば、たとえば原子力技術を大量破壊兵器に転用した原子力爆弾となり、アニミズム的な知で設置した日本の原子力発電「シン・ゴジラ」参照)となってしまう。また、生命科学が進歩している現代においては生命創造もクローン技術などによって可能であり、もしヴィクターのように生みだされる側の意志を尊重せずに道徳的な判断が欠如している場合、それは『フランケンシュタイン』のような悲劇を引き起こすだろう。『フランケンシュタイン』は科学的知の運用に警鐘を鳴らす書として、シェリーが書いた時代より現代において大きな意味をもっているのである。

ヴィクターの経験的欲望と思想

 道徳的・倫理的領域の動機から出発して、科学的知の領域から目的や条件に適応した知識を選び出す、判断力とはその両領域の橋渡し的能力でなければならなかったわけであるが、しかし、経験的欲望によって知を求め、生命創造の技術を生みだしたヴィクターを突き動かしたその欲望とはなにか、当時では神のみが握っていると考えられていてもおかしくないであろう創造の秘密と技を科学的に証明可能だと思わせる思想とはなにであろうか。
 ヴィクターは故郷ジュネーブからインゴルシュタットの大学への旅立ちを前に、「人生で最初の不幸」に直面する。その不幸をかれは「未来の悲惨な姿の前触れ」だと言った。実の母の死だ。直接的に言及されることはないが、この経験が意識的にであれ、無意識的にであれ、ヴィクターをして生命の再生に向かわせたのは明らかであるように思う。作者メアリー・シェリーの誕生がその母メアリー・ウルストンクラフトの死を代償にしたものであったように(ウルストンクラフトは子メアリーの出産後に死亡した)、怪物誕生の原因は「母の死」なのだ。
 しかし、いくら生命の再生を望んだところでそれが神にのみ許された奇跡の技であるとしたならば、ヴィクターはあきらめるほかなかっただろう。ここで重要になってくるのが理神論である。この宗教思想は、神の存在を否定することなく経験的・法則的に明らかになりつつある世界を肯定する、要は宗教的立場と科学的立場を両立させるもの。神という超越的な存在が世界に関与したのはそれの創造だけであると限定し、その後のすべての物質のふるまいは天地創造時に神が定めた法則に従っているのだ、とした。理神論では、この世界は「神によってねじを巻かれた時計」という比喩で表現され、それゆえにひとりの人間の生から死までの人生も、あらゆる社会の歴史も、この宇宙の誕生から終焉までを貫く時間の流れも、精緻な仕組みによって動く世界では方程式を解くように過去を明らかにすることができるし、未来は予測することができるだろうとされるのだ。ならば、人間が現在と完全に地続きである天地創造時の御業を神の手から引きずりだすことも可能なはずだ、と考えても何らおかしいことではない。ヴィクターはかれの関心事が生理学となる以前から、そうした思想をもっていた。

わたしが何としても学びたいのは、天と地をめぐる秘密の関係でした。自分の心を捉えているものが、事物の表面の姿であっても、あるいは自然の魂や人間の神秘的な心であっても、わたしの探究は形而上的なものに向けられました。あるいは、もっとも高度な意味における、この世界の自然科学的な秘密に向かっていたのです。

 かれは生理学について学びはじめると、日が昇っていようが沈んでいようがそんなことはお構いなしに、納骨堂や遺体置き場で遺体が腐敗しウジ虫に浸食される様を観察し(ここに科学的な姿勢がある)、生命発生の原因を突き止める。そして、ヴィクターが「休む間もなく、健康も犠牲にして、ほとんど尋常と思えないほどの熱意で」生命の創造に取り組んだ結果に完成したその生物は、まるで人間機械論を証明するかのように、バラバラの体の部位を縫合した姿かたちでひとつの意識をもった怪物だったのである。

フランケンシュタイン・コンプレック

 ヴィクターは完成した怪物を見るなり、それの八フィートを超える大きさと醜さに恐怖し嫌悪感を覚える。のちにSF作家のアイザック・アシモフが「フランケンシュタイン・コンプレックス」と呼んだ心理である。人間はその知性を遺憾なく発揮し、機械をはじめとする被造物(人工生命体やロボットなど)をつくりだそうとする反面、その被造物によって創造主たる自分たちの優位性が揺らぎ、支配されたり滅ぼされたりしてしまうのではないかという不安や恐怖を潜在的に抱き、排除しようとする。それを説明することばだ。
 アシモフはこのフランケンシュタイン・コンプレックスを基にして、自らのロボットをテーマにした作品群の中で「ロボット三原則」を提唱した。

ロボット工学の三原則

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない

『われはロボット』

『鋼鉄都市』では、この三原則を適用したロボットと人間の共存社会の理念を「C/Fe」ということばで表した。炭素原子を主成分とする有機物である人間が「C」、鉄からできたロボットが「Fe」であり、人間とロボットが「/」によって並列されているわけである。しかし、「共生」とは言いつつもアシモフの描いたその社会では、自意識をもったロボットに人権が認められるわけではなく、三原則の規制の枠に押しとどめられる。アシモフの立場とは楽観主義的なものであり、ロボットの本質に迫る作品であると断言することはできないのだアシモフの作品がすぐれている点は、SFに本格的なミステリをもちこんだ点であり、ロボット三原則はあくまでそのミステリ要素のある物語展開のために使われている)。一方で、『フランケンシュタイン』がSFとしてすぐれているわけは、このロボットなどの被造物の本質を語ろうとしているからだろう。
 フランケンシュタインの怪物には自由意志がインストールされており、アシモフのロボットのようにあらかじめ規制によって足枷をされた存在ではないのである。そのような存在が人間社会に放たれたとき、それはどのように成長し、社会はどういう反応を示すだろうか。
 ヴィクターの研究室から逃げ出した怪物は、その脳がもとはほかの誰かのものであったとしても完全に初期化された状態であった。感情はあってもそれをことばにすることはできない。いったい自分が何者であるのか、知ることはできない。怪物は図体だけでかい赤ん坊だったのだ。そんな怪物がことばを学び、アイデンティティを形成していくのはドイツの片田舎の小屋のなか。壁にあいた隙間から覗き見た隣人の家族のようすから、である。
 フェリックスという男が恋人であるサフィーに『諸帝国の滅亡』でフランス語を教えるのだが、怪物はこれを垣間見ることで人間社会の歴史の概略を知る。そして、その社会という枠組みの中で「おれ」の存在を見つめ、自分が「怪物」であることを自覚して絶望する。

 隣人たちの話を聞いていると、次々と驚くべきことが出てきた。フェリックスがあのアラビア娘に教える内容に耳を傾けていると、人間社会の不思議な仕組みがわかってくる。財産の分配、巨万の富とひどい貧乏、階級、家柄、高貴な血筋と言った話だ。
 こうした言葉を聞いていると、自分のことに思いが至る。人間の世界でもっとも高く評価されるのは、富を有すると同時に、純粋な血統を持っていることらしい。このうち一方だけでも尊敬されるが、どちらもなければ、よほどのことがない限り、まるで奴隷のような扱いを受け、選ばれた少数者のために自分の力をすり減らすことになるのだ!
 ではいったい自分は何なのか? おれは自分がどのようにして、誰につくられたのか、まったく知らない。金も、友達も、およそ財産と呼べるものは何もない。それどころか、おぞましい容姿でみなから嫌われている。~(中略)~まわりを見ても、同じような存在はいないし、聞いたこともない。では自分は怪物で、この地球上の穢れなのか?

 さらに怪物は『若きウェルテルの悩み』で人間に共感し、『プルターク英雄伝』で人間の思想に感動するが、しかし、やはり自分には財産もないし、高貴な家柄でもない、いや、正確にはヴィクター・フランケンシュタインという「父親」があり、スイスの名家であるフランケンシュタイン家の一員として迎え入れられるのが道理であるはずなのだが、「父」の都合で一方的に拒絶され、自分の帰属するもっとも自然かつ小さな社会集団である家族もその愛すらもないような、まるでどぶ底に生きる名無しのかれに人間社会での居場所はなかったのだ。そして、『失楽園』のアダムのように自分の身を嘆き、イヴもおらず「命あるものと事物の連鎖に連なる」ことの許されない怪物は、どちらかと言うと創造主を憎むルシファ―へと同化していくことになる。
 怪物はヴィクターにせめて自分と同じようなイヴを創造するように嘆願するが、このときかれの抑圧された精神はこの『フランケンシュタイン』という物語が内包している問題系を凝縮して、彼に切実なことばの連なりとして吐き出させる。その怪物のことばに耳を傾けることで、この評の最後としたい。

 ああ、フランケンシュタイン、ほかの人間には優しいのに、なぜおれだけを踏みつけにするのだ。この身体はおまえの正義、いやおまえの慈愛を受けてしかるべきなのだ。忘れるな。おまえがおれをつくったのだ。おれはアダムなのだ。だが、このままではまるで何も悪いことをしていないのに、喜びを奪われた堕天使ではないか。あちこちに幸福が見えるのに、おれだけがそこからのけ者にされている。おれだって優しく善良だったのに、惨めな境遇のために悪魔となったのだ。どうかおれを幸せにしてくれ。そうすればもう一度善良になろう。
~(中略)~フランケンシュタイン、おれの話を聞け。おまえはおれを人殺しと非難するが、それでいて自分がつくったものを破壊しようとし、良心の呵責を感じない。まったく人間の永遠の正義とは、大したものだ。だが、おれは助けてくれと言うのではない。ただ話を聞いて欲しいのだ。そしてその後に、おまえにできるのなら、おまえが望むのなら、自分でつくったものを破滅させるがいい。