読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日本と三発の原子爆弾――「ゴジラ」、そして「シン・ゴジラ」へ

映画 邦画

シン・ゴジラ

2016年 日本 119分

総監督:庵野秀明
監督・特技監督樋口真嗣
脚本:庵野秀明
音楽:鷺巣詩郎
出演:長谷川博己石原さとみ竹野内豊ほか

 まだまだ執筆途中ですが……読んでもらえれば幸いです。毎日少しずつではありますが、進めております。

二発の原子爆弾

 日本の怪獣映画の原点にある「こころ」とはなにか。
 観客はわざわざ金を支払い、真っ暗闇の空間へと足を運び、その暗闇のなかで唯一光を放つスクリーンを見あげる。ぼくにとって、それは怪獣=神を拝む「祭り」であり――と書けば、「そんなことはない」と思われる読者諸賢もおられるであろうから、ここはひかえめに――怪獣映画を映画館という「特殊」な空間で観るという行為は、ケではなく「ハレ」の催しなのだ、とでも言っておこう。
 では、その場において祭り上げ、興奮し得る「怪獣映画」とはどんなものだろうか。
 たとえば、それは――

 もしこの現代の都市に巨大な怪獣が現れたとしたら、どう見えるだろうか。

 人間のスケール感をはるかに超越する巨大な物体が街並みを蹂躙したら、人類はどうなってしまう/どうするのだろうか。

 ――という視点で作られた映画ではなかろうか。まさにそれは「ケ=日常」を破壊してしまう体験だ。観客はスクリーンのなかで虫けらのように逃げ惑う人間を観る。人類の叡智を象徴でもするかのように屹立したビル群が崩落することの、逆説的な美しさや安らぎを感じる。そして、なによりも絶対的なものとして存在する怪獣の、神々しくも恐ろしい姿に慄く――ぼくは、鬱積したとあるやましさや不安を倒錯的に快として感じていた
 だが、哀しいことにその感覚を、第一作以後のゴジラシリーズは永らく忘れることになる。そこにこそ、日本怪獣映画の「こころ」があったはずなのに……。

 戦後日本SFの想像力の礎となったのは、二発の原子爆弾だ。
 広島と長崎に投下されたふたつの原爆は、日本の戦争継続能力をゼロへとたたき落したとどめの一撃(二撃?)となった。日本は世界ではじめて原爆を落とされた国になった。そして――いまだ日本は直接的な攻撃として原爆の被害を蒙った唯一の国だ。
 科学技術(とりわけ原子力技術)にたいする、その国の大衆的意識は〈表〉と〈裏〉で構成されることになる。〈表〉とはすなわち戦争を放棄し、「軍事の覆いを剥ぎとった平和のため」という条件下ならば核技術推進も辞さない、科学技術立国となった日本。この〈表〉にもっともふさわしいSF的アイコンを選ぶとしたら、それは鉄腕アトムになるだろう。動力源に核融合システムを搭載した「科学の子」は、父に捨てられ人間にも迫害される悲劇の子でありながら、「七つの威力」で悪のまえに立ちはだかる。アトムは戦後日本の平和と繁栄を象徴するヒーローとなった。
 一方で、〈裏〉は〈表〉へのアンチテーゼとなる。科学技術礼讃のオプティミズムと対照的な概念をなすのは、ゴジラ。それももちろん、1954年に公開された第一作にあたる「ゴジラ」。その口から放たれる放射火焔は東京の街を呑み、人びとの記憶の底から大空襲の惨状を喚び起こし、さらに放射能汚染された瓦礫の山は広島/長崎に重ねあわされる。アトムと同じく、科学によって生みだされたゴジラだが、しかし――被爆してもなお生きつづける怪物の居場所は輝かしい未来都市にありはしない。むしろ、

 ゴジラは第二次大戦という事変が居すわる過去へと遡行する。

 昭和20年の真夏に原子爆弾が炸裂して以降、日本人の意識の片隅には茫々とした焦土で燻りつづける熾がある。都市を蹂躙するゴジラの頭部はキノコ雲型に象られ、そのモチーフは日本人の心的苦痛と呼応して、科学技術が潜在的に擁する負の側面を意識せざるを得ない。日本SF第一世代の作家小松左京も、イワン・エフレーモフに宛てた批評のなかでゴジラについてこう語っている。

 古典的な怪物に対して、SFの描き出した怪物は、決してまさるとも劣りません。たとえば日本映画界が作り出した世界にほこり得る怪物『ゴジラ』があります。――核実験の結果、海底に眠る超古代の恐竜が眼ざめて日本をおそう。口から放射線の火を吐いてあらゆるものを焼きはらい、破壊の暴威をほしいままにして、近代装備の軍隊すら、まるで歯がたたない――これは科学の発達が、再び現代に復活させてしまった原始的恐怖のシンボルとして、『モビィ・ディック』などよりはるかに現代的な怪物であり、核戦争映画としても、ネヴィル・シュートの『渚にて』など、足もとにも及ばないほど、アクチュアルな批評性をもったものでした。
 それは世界唯一の原爆被災国であり、戦後も第五福竜丸事件をはじめ、大国の核実験の被害を直接にこうむりつづけている日本のみが、うみ出し得たいきいきとしたシンボルでした。
(「拝啓イワン・エフレーモフ様 ――「社会主義的SF論」に対する反論」)

 ここで疑問に思う――それだけか?
 ゴジラが大戦時の過去へと遡行をはじめる理由は、それだけなのか? もっと日本人の精神にとって重要な意味をなす「なにか」があるのではないか。そして、その「なにか」こそ、はじめに述べた「鬱積したとあるやましさや不安」へと繋がるはずだ。

 そこで問いかけをこう変えよう――。
 なぜゴジラは日本の首都、東京に上陸したのか。
 なぜわざわざ皇居を迂回するようなルートで都心を侵攻したのか。

 日本は敗戦後、アメリカの科学技術原子爆弾に負けたことを原動力に壊滅的状態から復興し、まさに爆発的な発展を遂げてきた。戦後民主主義によって天皇を中心とする史観は解体され、憲法に記載された戦力不所持の平和主義と日米安保に守られた「平和」のなかで、科学技術立国となった日本は経済成長という「繁栄」を謳歌した。その〈表〉舞台の〈裏〉側で――

 半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。
(「堕落論」)

 ――その〈裏〉側でくりひろげられたのは、冷戦を背景とする朝鮮/ベトナム戦争。日本はアメリカに従属した。その庇護下で外交や国防に拘うこともなく、経済を優先した。そして戦争特需によって――戦争を否定するどころか歓迎することによって、経済成長の足がかりとした。
 そうなのだ。戦後日本の「平和と繁栄」は矛盾撞着に充ちている。
 ここで言う「平和」とは、日本がふたたび戦禍を蒙らないことにすぎず、「繁栄」とは、他国の戦争被害から目を背け、しかしその戦争の恩恵にあずかることにすぎない。

 この状況を嘆く者がいるとすれば、それは誰か。
 日本人の大多数は誰を裏切ることで、大戦の戦渦を生き延びたか。

ゴジラ」は「戦災映画」「戦禍映画」である以上に、第二次世界大戦で死んでいった死者、とりわけ海で死んでいった兵士たちへの「鎮魂歌」ではないかと思いあたる。“海へ消えていった”ゴジラは、戦没兵士たちの象徴ではないか。
(「「ゴジラ」はなぜ「暗い」のか」)

 日本軍は敗戦の兆しが見えはじめるや否や、「本土決戦」を計画し「一億玉砕」のスローガンを翳した。もはや国民全員が一丸となって特攻し、敵の戦意を削ぐしかない、と。連合国軍が沖縄に上陸を開始すると、戦艦大和を含む第二艦隊には水上特攻が命じられた。その第二艦隊司令長官である伊藤整一へはこう伝えられたという。

「一億玉砕ニ先ガケテ立派ニ死ンデモラヒタシ」(海軍首脳)

 戦艦大和は轟沈した。敵魚雷数発をその身に受け、横転し、爆発し、沈没した。
 しかし――ひるがえって生き残った日本人はどうしただろう。
 生者は、死者との約束を果たしたか。「本土決戦」は?「一億玉砕」は?

 戦没者の怨念は集合体を形成し、ひとつの怪物を象った。

 怨念集合体は東京湾から上陸した。楽天的にも自分たちを裏切った末「本土決戦」をまぬがれ、あまつさえ「平和と繁栄」を謳歌する祖国をどん底に突き落とすために。皇居の堀をぐるりと廻りこむように移動するゴジラは、銀座のビルディングや国会議事堂などを破壊し、放射性火焔を吐き――

 けれども私は偉大な破壊を愛していた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。
(「堕落論」)

 ――放射火焔は、東京の街をふたたび焦土へと還す。
 本土決戦の惨禍を経験することのなかった日本人は、戦争をリアルなものとして感じられない。日本の土地柄からか、戦略爆撃原子爆弾の被害さえ、自然災害へのそれと同じやり口で早々に忘却され、日本人にとっての戦争とは「海の向こうの出来事」になってしまった。だから、朝鮮戦争ベトナム戦争にたいして傍観者の態度をとることへの罪悪感は薄かった。
 ゴジラの咆哮は、戦後自省することもなく相変わらず楽観主義的精神のままでいる日本人を嘆く、叫び声だ。

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。(中略)偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。
(「堕落論」)

 ぼくはゴジラに慄きながら、彼の者の狂暴な破壊に激しく興奮していた――燃えさかる東京の街の美しさ。崩落し余燼をあげる廃墟となったビル群の美しさ。抗いがたい存在から逃げようとする人間の、そのはかなさを美しいと感じた。
 それは「泡沫のような虚しい幻影」の向こうに、日本人の「堕落」を見ていたのだ。

人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
(「堕落論」)

  坂口安吾は「堕落論」のなかで、日本人の精神は「明日の敵は今日の友の楽天性」であると看破した。
 戦時中の「天皇陛下万歳!」「本土決戦」/戦後の「アメリカ万歳!」「民主主義万歳!」。
 聞こえよく戦争に反対し「平和」を希求する声/「繁栄」のためには戦争を見て見ぬふりをする心理。
 元来の性分が滅多に変わることはなく、
  「なるようになるさ」
 その心情はぼくらの精神に根を張りつづけている。だから、日本人は堕ちる。
 ならば――、

 ならば、日本人は「正しく」堕ちぬかねばならない

 どうしようもなく堕落した精神を認め、堕ちきること。十字架を背負い、戒めつづけること。ぼくら日本人を救う道はほかにない。
  「ゴジラ」とは怪獣映画というフォーマットでありながら、戦没者に捧げる鎮魂歌であり、いまを生きる日本人への戒めであったのだろう……。

第三の原子爆弾

 坂口安吾は戦争がもたらす破壊に「美しさ」を感じてしまったことを打ち明け、日本人の精神には「美」のレイヤー(桜の美学に代表されるきれいごと)によって覆い隠された弱さや愚かさがあるのだと語った。それが「堕落論」であり、第一作「ゴジラ」の映像的な快と主題はこれとよく重なっていた。
 しかし、以降のゴジラシリーズでは第一作が時間軸の原点に据えられ、ゴジラの存在があたりまえの作品世界で怪獣同士のプロレスが展開されるという構造が定着した。そこに「偉大な破壊」はなく、ゴジラはもはや神性を纏わず、ただの生物へと矮小化された。そして、日本の怪獣映画から鎮魂と自戒の念は消えていき――

 一方でハリウッド映画に日本的なモンスターが出現した。従来の征服可能な自然としてのモンスター(「キング・コング」「ジョーズ」「エイリアン」「トレマーズ」など)とは打って変わり、人間がまったく手も足も出ないような超越的な存在――たとえば、「宇宙戦争スティーヴン・スピルバーグ=監督)の〈トライポッド〉や、「クローバーフィールド/HAKAISHA」マット・リーヴス=監督)の巨大な怪獣。
 とくにスピルバーグ版「宇宙戦争」の映像は、これ以上にないほど「怪獣映画」の理想形だった。〈トライポッド〉の光線兵器によって逃げ惑う人びとの肉体が一瞬で灰と化し、その数秒前までヒトだったものがトム・クルーズに降り注ぐ。水面を埋め尽くすほどの死体が川を流れる惨憺たる映像と、何百という衣服をヒラヒラと上空から降らす効果的な演出は、まるでゴミのように無力な人間の姿を観客に見せつける。主人公たちになにかができるわけもなく、ただ圧倒的な暴力のなかに日常が溶解し、刻一刻と人間世界が終焉へと収束していくのを眺めていることしかできない。
 さらに「宇宙戦争」は9・11以降顕在化した時代精神を反映する。宇宙人によって蹂躙される街や人びとのようすがテロ事件を下敷きにしているのはもちろんだが、なかでも1953年の「宇宙戦争バイロンハスキン=監督)と異なって象徴的なのは、〈トライポッド〉が地球の「内部」から現れることだ。これは冷戦時代の敵(国家)が外にいたのとは対照的に、「世界内戦」の時代である現代では、どこにおいても発生可能性のあるテロに起因して戦争状態がいつ噴出してもおかしくないことを――とつづけていたら、話がズレてしまいそうで……。

 ――鎮魂と自戒への人びとの意識が薄れかけていた2011年3月11日、日本に三発目の原子爆弾は落ちた。
 東日本大震災――マグニチュード9.0の大規模地震とそれに付随して発生した10mを超える津波、そして……福島第一原発事故
 もしこれが地震津波による災害だけですんでいたのなら、たとえ被害が甚大なものであったとしても、他の自然災害と同様に「仕方ない」の一言で忘却の彼方に葬り去られていたことだろう。しかし3・11は記憶される、少なくともまだ忘れ去られはしない。なぜなら、あの原発事故は日本に落ちた第三の原爆となったから。その第三の原爆は、戦時中の二発の原爆を引鉄として日本が軸足をおいてきたはずの科学技術、それにたいする信頼性をも揺るがすことになったから。

 アニミズム的な技術は、必要に応じて手近な材料を組みあわせる器用仕事(プリコラージュ)だ。放射能汚染水の流出をとめるために、福島第一原発の技術者は水槽に木屑や新聞紙を投げこんでいたが、まさに器用仕事の発想だろう。工業生産、もの作りという点で戦後日本は、本家の欧米を圧倒する水準に達した。「役立つ」製品、家電や自動車であれば問題は生じない。韓国や中国など新興諸国の追いあげを心配する程度ですんだ。しかし原発は事情が根本的に違っている。絶対観念なしのアニミズム的な知では、もともと歯の立ちようのない近代科学の究極形態が原子力技術だからだ。
(「3・11とゴジラ/大和/原子力――“ニッポン”イデオロギー批判」)

  これまで戦後日本の「平和と繁栄」が矛盾に充ちた楽天的なものであることを批判する声はあっても、この国が注力し育んできた技術力にたいしては、誰もが信頼を寄せていたのではないか。
 しかし、日本には「役立つ」製品をつくるための技術アニミズム的な技術)はあっても、その技術をゼロから生みだす思想(絶対観念的な技術)はなかった。3・11はそのことをまざまざと露見させてしまった。日和見主義だった戦時中の軍部から、原発という技術を管理しきれなかった東電や政府にいたるまで、日本人の精神はただ堕落したままであるとわかってしまった。

 そこで、「ゴジラ」は再び制作されることになる。
 これまでのゴジラシリーズの歴史にきっぱりと終止符を打ち、新たな時間軸を敷設することで、第一作「ゴジラ」を現代的に再解釈/3・11に連結させていく――それが「シン・ゴジラ」だった。
 東京湾にて、突如として水蒸気爆発による飛沫が上がり、薄赤く染まった海面から巨大な尻尾が立ちのぼる。奇怪な巨大不明生物は、プレジャーボート多数を破壊しながら河川を遡上、蒲田に上陸すると黒みを帯びた血を大量に垂れこぼしつつも這い廻り、あたりに被害を及ぼしていく。その後は東京湾に還ったかと思えば、此度は鎌倉から再上陸し都心を目指すが、米軍の地中貫通爆弾にその背を抉られ……咆哮が鳴り響き、はじめて表に怒りの貌を覗かせ……放射火焔が吐きだされる。

  「シン・ゴジラ」のゴジラは、受難者である。

 東京湾アクアラインのトンネル天井部が崩落し、流れこむ赤黒く染まった海水。鰓から噴きだす濁った血。背中から流れ落ちる血と肉塊。
 第一形態でも、第二形態でも、すっくと二足で立ったあの神々しい姿のときですら、ゴジラは血を流す。そもそもこのゴジラの外皮は焼けただれたかのようにゴツゴツとしていて、その隙間から覗き見える皮下組織は印象的に赤い。まるで苦痛とともにあるかのように。
 誰かがゴジラに荊冠を被せたのだ。いや、ゴジラのなかで明滅する誰か、その怒りの炎が苦行を強いていると言うべきか。
 そして、その誰かはゴジラという電燈が世界を照らし浮かびあがらせることを望んだのだ。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
(『春と修羅』「序」)

(以下執筆中……)